主の平和のあいさつをするわたしたち

―主任司祭メッセージ 8/2―



「あなたがたに平和があるように」 と。
(ヨハネ20・19b)

 これは、復活されたイエズスさまが弟子たちにあらためて会われた時の、あいさつの言葉でした。
 
公生活の初めに、イエズスさまの述べられた言葉が実現されたことの宣言(発表)となっています。
そのことばは、

「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい。」   です。
(マルコ1・15)

 預言者イザヤが、キリストについて言われたことばも実現します。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。その名は、「…平和の君」

(イザヤ9・5)

 もう天と地が一つになりました。そこに永久に、平和がとどまっています。


 ミサは、この出来事(キリストさまによって訪れた平和の出来事)をいつまでも今、わたしたちの中に
起こし、実現するものです。
 
ミサが終わる時に、イエズス様がその平和を実現するためにわたしたちを派遣されます。

「行きなさい。…どこかの家に入ったら、まず
『この家に平和があるように』と言いなさい。
平和の子がそこにいるなら、
あなたがたの願う平和はその人にとどまる。」
(ルカ10・3a,5〜6a)


 実は、今コロナウイルスに強いられて、わたしたちは“あいさつ”までも制限される状態に
なっています。社会全体が自由を奪われて、人間らしく生きられなくなり、閉じ込められています。

 小さい子供たちや赤ちゃんたちは一番かわいそうです。顔を合わせてのあいさつ、笑顔、
声をかけてのコミュニケーションまでできなくなってしまったなんて!

 この間、電車の中で、手を振るあいさつしかできなかったけれど、赤ちゃんはわかって
ニコッと笑ってくれました。よかったと思いました。お母さんも喜んでくださいました。



 

 ミサの中でわたしたちは平和のあいさつを交わす時があります。

「主の平和のあいさつを交わしましょう」と。

 けれども今は、慣れている形ではできなくなっています。何らかの形をみつけて、
平和のあいさつを怠らないようにしましょうね!




 平和のあいさつ、それは天国。それは人間の本当の幸せです。
 
ミサの流れの中で「平和のあいさつ」は、「主の祈り」の後にありますが、
主が教えてくださった祈りの中で、わたしたちを兄弟にしてくださったイエズス様と一緒に
神さまを「父」と呼び、「天におられるわたしたちの父よ」と呼んで、わたしたちの願いをささげます。
 
司式者は、わたしたちの祈りを言葉にして言います、

いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、
現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、
すべての困難にうち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主、イエズス・キリストが来られるのを
待ち望んでいます。
…と。

 “平和のあいさつ”は、キリストさまがもたらされた平和のために尽くすわたしたちの決心をも
表しています。真福八端にあるように、

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる   と。
(マタイ5・9) 

 また、

目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することができません。
(ヨハネの手紙J4・20b)  

とあるとおりです。


 コロナ禍のこの時こそ、愛のしるしを表すことをおこたらないように歩みたいと思います。

 ではまた来週!



カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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