マリアさまはわたしたちの希望のあけぼの

―主任司祭メッセージ 8/9―



 今年は皆がミサのために集まって「マリアさまの被昇天を祝う」ことができませんが、皆さまと一緒に
この日を大切にしたいと思います。まだまだ続くウィルスの試練の中で、それぞれのところから
皆さまが「この危機を乗り越えて世界が平和の道を見出し、歩むことができますように」と
“祈る日”にしたいと思います。
 この日8月15日に、“ご一緒にこの祈りをミサの中でささげることができないこと”を
“特別なささげもの”とし、皆さまのために司祭が行う会衆なしの非公開ミサに心を合わせて
祈るようにおすすめします。

 実は歴史の流れの中に何らかの試みが訪れるとき、特別な形でマリアさまへの祈りを
ささげることは、教会の伝統です。
 カナの婚宴でぶどう酒が足りなくなった時、マリア様が言われたお言葉は、そのわけを教えてくれるでしょう。

ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、
「ぶどう酒がなくなりました」といった。…
母は召し使いたちに、「この人が何か言い付けたら、
そのとおりにしてください」と言った。
(ヨハネ2・3、5)

 ここで母なる感覚をもってふるまうマリアさまは、神さまの深い愛を表します。

 被昇天の祝い日も、わたしたちのために働かれるマリアさまのとりなしの深いわけを
教えてくれます。つまり、その御子と一緒にマリアさまはすでに“栄光のいのち”に達して
おられるからです。
 わたしたちはみな死のおとずれの時、魂は天に行きますが身体との別れを味わいます。
けれどもイエズスさまもマリアさまもそうではありませんでした。

「なぜ、生きておられる方を死者の中にさがすのか。
あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」
(ヨハネ24・5b〜6a)

イエズスさまは昇天され、この世が終わるまで「生きておられる方」として、
わたしたちとともにおられます。
(参照 マタイ28・20)

 マリア様もわたしたちより先に、イエズスさまと一緒に特別なお恵みによってすでに
“栄光のからだ”をもって天におられます。こうして、マリア様はわたしたちの“希望のあけぼの”
となっておられるのです。
 これが被昇天の意味です。
 こうして旅する教会であるわたしたちが、この旅路の続く限り御子と一緒に
天におられるマリアさまのとりつぎを願うのです。

 マリアさまの被昇天の日が日本のお盆と重なるのは偶然です。
 実は、死についての教会の教えは世間の考えと異なっています。キリスト信者は、
わたしたちのこの地上のいのちがキリストさまのいのちの神秘とつながっていることを信じています。
 死者のためのミサの中でも

復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟…をこころにとめ、
あなたの光の中に受け入れてください。
(死者のミサの奉献文)  と祈ります。

 復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟たちは、栄光のからだを着ることを
待ち望みながらも
(参照:フィリピ3・21 フランシスコ会訳)、イエズス様とマリア様のもとから
わたしたちのためにとりなしてくれています。 

信じるものにとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、
地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが
備えられています。
(叙唱 死者の日ほか)

 キリストを信じるわたしたちにとっては、死も試練も「いのちに満ちた時」です。
 これは教会の信仰です。もう神さまの愛は死に勝たれたからです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
…死も、…わたしたちの主キリスト・イエスによってしめされた
神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマ8・35a、39b)

 被昇天の日のミサにある集会祈願を、この“祈りの日”に捧げましょう。

全能永遠の神よ、
あなたは、御ひとり子の母、
けがれのないおとめマリアを、
からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。
信じる民がいつも天の国を求め、
聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。



 ではまた来週!!



カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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