先だった兄弟たちのために祈る教会

―主任司祭メッセージ 8/23―



 ミサの奉献文で教会は次のように祈ります。

また、復活の希望をもって眠りについた
わたしたちの兄弟とすべての死者を心に留め、
              あなたの光の中に受け入れてください。
   
(第2奉献文) と。

 人間となられた神さまは、人々をみなご自分の死と復活の神秘に結ばれたのです。
まだこれを知らない人々も含まれていますので、教会は先だった人々みなのためにお祈りを
ささげます。教会といっても、ミサの神秘によっていつも新たに執り成して下さるキリストさまの祈りに
加えられたわたしたち教会、のことですね。

 この教会の信仰は、死んで復活された「イエズス様の神秘」に根付いているものです。
 イエズス様のことばから学びましょう。

(神は言われます)『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』
とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
                  
(マルコ12・26b〜27a)      とイエズスは言われます。

 つまり教会の信仰の感覚からみると、死はいのちの終わりではありません。人の存在は、
いのちの世界と死の世界に分かれるものではなく、死の神秘を通して人は永遠のいのちに
つながっているのです。時間の中に置かれたいのちは、すでに永遠のいのちとつながっていることを
教会は信じています。

 こういう理由で、人が亡くなった日を命日と呼ぶことは教会にとってふさわしいと思われます。

信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、
地上の生活を終わった後も、
天に永遠のすみかが備えられています。
(死者ミサの叙唱)

 私自身は子どもの頃から、この信仰を身につけたことを思い出します。育った小教区では、
月に一度ミサの後で、皆が行列を作って祈りながら墓地を訪れる習慣がありました。
 興味深いことに墓地を示す言葉は、イタリア語でカンポサント(聖なる場所)と昔から
言われていますが、日本でもお墓を祝福する意味がここに表されています。魂から分かれても
体は聖なるものと教会は見ています。

「キリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、
『罪から解かれるように死者のために祈ることは、聖であり健全な考えであるから』
(二マカバイ12・45)
(教会は)
死者のための祈願をもささげてきました」
(「カトリック教会のカテキズム 958」)

 こうして、キリストの体に加えられたキリスト信者は、教会に運ばれ、祭壇の前に置かれ、
葬儀ミサをささげることになります。それはキリスト信者(教会)の深い希望を表すものです。

神の祭壇にわたしは近づき
わたしの神を喜びうたい
琴を奏でて感謝の歌をうたいます。
神よ、わたしの神よ。
(詩編43・4)

 使徒パウロのことばにすると、

(あなたがたは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、
また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、
キリストと共に復活させられたのです。
(コロサイ2・12)

 ミサは永遠にいたるいのちの神秘を祝うものです。
 したがってミサはキリストの愛によって、先だった兄弟と一つになっていることを表すのに
最もふさわしい祈りです。
 この一致の心を表す祈りとして、いつでも唱えることが出来る祈りもあります。

主よ、永遠の安息を彼らに与え、
絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ。
彼らの安らかにいこわんことを。アーメン。



 ではまた来週!!



カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

主任司祭メッセージのバックナンバーは更新記録へ