ミサがないプロテスタント教会

―主任司祭メッセージ 9/6―



 イエズスさまは「ご自分の教会」(参照 マタイ16・18a)のうちに「生きておられる方」(参照 ルカ24・5b)
としておられますが、それは、特別なかたちでご聖体の神秘を示しています。

日本が初めてキリストが望まれた教会に出会ったのは、聖フランシスコ・ザビエルが日本に到着した
ときでした。
 ちょうどその時代、ヨーロッパで政治的な動きに伴いいろいろな国の人々が「教会は一つ」という感覚
から離れてバラバラになって、いわゆるプロテスタント運動が起こりました。

 こうして明治維新に改めて日本に来た「キリストが望まれた教会」は、カトリックとプロテスタントに
分かれた姿で現れました。日本の社会ではそれほど差があると考えられず両方ともキリスト教の教会と
言われますが、実は大きな違いがあることを理解しなければなりません。

 イエズスさまが望まれた教会の根本は、カトリック教会が認めている正しい洗礼による教会ですが、
この洗礼以外に一番目立つ違いは、プロテスタント側にはミサがないことです。
 そのために、イエズスさまの教会に欠けてはならないエウカリスチアの贈りものである「現実の現存」
(ご聖体)もありません。
 つまりプロテスタント教会には食事があってもただ食事だけです。
 プロテスタント教会の建物には、ミサのための祭壇や聖櫃もなくただ集まるホールだけで、
マリア様と聖人たちの像もありません。
 などなど…。

 日本の社会の中では実は「教会」の意味も分からず、区別するためにだけカトリックとプロテスタントに
分かれていますが、「…私は聖霊を信じ、聖なる普遍の教会…」とカトリック教会の信仰宣言にある通り、
この「聖なる普遍の教会」は「初めから普遍
(“カトリック”と訳されている)」と言われている教会です。 
  つまり初めから教会は「一つ」で「カトリック=普遍の」と言われ、イエズスさまがのぞまれたあの
『わたしの教会』
(マタイ16・18a)なのです。

 この教会の中に、キリストはご自分の存在(現実の現存)を置かれました。それは秘跡(しるし)
による存在です。
 秘跡を通してキリストは教会を「ご自分の体」となさいました。それは教会がふさわしく
成長するためです。

 カトリック教会と信仰の伝統を共有する正教会以外ミサを行う教会はありませんが、それは
司祭職の秘跡がないからです。
 牧師と違って司祭は「わたしたちと共におられるキリスト」の姿を表し、彼だけがミサの中で
「福音」を読み、またみことばを宣べる資格があります。また彼だけが「キリストのしるしとなって」
(イン ペルソナ クリスティ)、

『これは あなたがたのために渡される
 わたしの からだ(である)。』

と言うことによって、わたしたちがイエズスさまに捧げたパンは、わたしたちを養ってくださる
「キリストの体」となるのです。


 教会の信仰では、預言者の言葉どおりキリストは「インマヌエル」「わたしたちと共におられる神」
(マタイ1・23)なのです。この聖書のことばは、キリストの現実の現存によって特別に実現されるのです。
 ですからわたしたちは、教会の建物にキリストを訪問することが可能になります。
それから教会に入ると、イエズスさまのもとにわたしたちの居場所もあるのです。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでも
わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイ11・28)


************************

  神は、さんびされますように。
神のみ名は、賛美されますように。
まことの神、まことの人、イエズス・キリストは賛美されますように。
イエズスのみ名は、賛美されますように。
イエズスのみ心は、賛美されますように。
イエズスの尊い御血は、賛美されますように。
ご聖体の秘跡のうちにおられるイエズスは賛美されますように。…

(ご聖体の賛美の祈り より)





 

 ではまた来週!!

 


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

主任司祭メッセージのバックナンバーは更新記録へ