ミサの祈りは世界のための祈り

―主任司祭メッセージ 9/13―



 教会を通してキリストさまがささげられるミサの祈りは、世界のための祈りでもあります。

 人間となられた神さまでおられるキリストのミサは、時間の中で人間が行うべき神さまへの
礼拝であるとともに、世界中のどこからもささげられるべき礼拝です。この礼拝は教会を通して
行われます。
 つまりこの百合ヶ丘教会からもささげられる礼拝です。
 そのために、ミサの中で司祭を通してささげられる祈りは次の形を取っています。

聖霊の交わりの中で、あなたとともに世世(よよ)に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主イエズス・キリストによって。
(ミサの集会祈願参照)

   

 こういうわけでミサは、まだ神を探し、真理を探している人々が真理に出会い、救いを
見出すことができるための願いでもあります。

 ミサは、人類のためにキリストがおささげになる願いでもあります。
 このキリストさまの「のぞみ」は、あの十字架上のお言葉にしるされています。

『渇く』 (シツィオ “sitio”)(ヨハネ19・28)

 この言葉は、マザーテレサがその会の目標として選んだ言葉でもあります。

 教会の有名な聖人ですが、その母聖モニカの生涯の祈りがかなえられて回心し、
すぐれた聖人となった聖アウグスチヌスの言葉を思い出すと、人々を真実に招くミサの祈りの
尊さがわかると思います。
 聖アウグスチヌスは自分の回心への歩みを、神さまに告白する形で本に書き残しました。
 その本のタイトルは「告白」です。その中からの言葉を引用しましょう。

(神さま、) …あなたを愛することがあまりにも遅すぎました。
あなたは内にあったのに、わたしは外にあり、
むなしくあなたを外に追い求めていました。…
(が、今は)  あなたはわたしに触れてくださったので、
あなたの平和を求めてわたしの心は燃えています。」



涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。
(詩編42・2〜3)

 何時も何処でもイエズスさまの「渇き」にわたしたちも心を合わせて、天の父が
そのキリストの「のぞみ」をかなえてくださるよう、ご一緒に祈りたいと思います。





 

 ではまた来週!!

 


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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