ミサの中での信徒の祈り(共同祈願)

―主任司祭メッセージ 9/20―



 パウロのテモテへの手紙の中に、とても大切な言葉があります。

そこで、まず第一に勧めます。
願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい。
わたしたちが常に信心と品位を保ち、
平穏で落ち着いた生活を送るためです。
これは、わたしたちの救い主である神の御前によいことであり、
喜ばれることです。
神は、すべての人々が救われて、真理を知るようになることを
望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、
人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
この方はすべての人の贖いとして
御自身を献げられました。
(Jテモテ2・1〜6a)


 エウカリスチア(ミサ)が行われる度に、この祈りが行われます。
 世界中の人々のための祈りであるので、共同祈願ともいい、universal prayer といいます。
 この祈りは、ミサの式次第に「共同祈願」として知られています。

 またみことばの祭儀の終わり、信仰宣言の後に「みことば」に応えて信徒の祈る心を表す祈りですから、
「信徒の祈り」と言います。
 この祈りが最も荘厳に祈られるのは、聖金曜日の典礼の中です。

 信徒の祈りという理由は、信徒がそのミサの中で自分の洗礼による「祭司職」を表し、
また祭司キリストに加えられることを示すものだからです。
 つまり祈りの意向を言うだけでなく、イエズスさまがご自分を御父に捧げられる祈りに
信徒自身も加わる意志を表します。

 祈りについてイエズスさまはわたしたちに次のように教えてくださいます。

イエスは、気を落とさずに
       絶えず祈らなければならないことを教え…
( と。)  (ルカ18・1)

 今、世界中の人々は、コロナウイルスの危機に苦しんでいます。もっとも弱い人々こそが
それによって苦しめられています。ですからわたしたちは祈ります。
 聖書には次のように書いてあります。

人は栄華のうちに留まれず、
滅び失せる獣(けもの)に等しい。 
(詩編49・13 フランシスコ会訳)

 “人が滅び失せる獣に等しい”のならば、どうしてわたしたちは祈るのでしょう。
 それはきっと、死んで復活され生きておられるキリストと心を一つにすることを学ぶためでしょう。
 日本のことわざに“苦しいときの神頼み”というものがありますが、実は人間が苦しくない
(困っていない)時はありません。根本的にわたしたちは神さま以外「拠りどころ」はないのです。
 そうすると危機や苦しみがくる時も、信仰は必ず「十字架の恵み」に目覚めさせてくれます。

 キリストとともにその十字架の道を歩むところにこそ救いがあり、新しいいのちがあることに、
祈りが目覚めさせてくれます。つまり、試練と出会うときにこそ愛を表す心の可能性がわたしたちに
教えられています。
 十字架の神秘こそが、「いのち」とつながっています。祈りがそこへ導いてくれるのです。

イエスは言われた。『神を信じなさい。…
だから、言っておく。
祈り求めるものは、すべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、その通りになる。』 
(マルコ11・22b、24)

 イエズスさまの死と復活によって、「既に」イエズスさまのいのちの勝利は得られたのですから、
祈りによってイエズス様と心一つになることによって、わたしたちも同じ勝利に与ることになります。

 

 ではまた来週!!

 


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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