わたしと ともに食事をする

―主任司祭メッセージ 9/27―



見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

(黙示録3・20)

 「イエズス様と共に食事をする」、それはご自分のいのちを捧げられるイエズス様とこころ一つにする
ことですね。聖書の他の箇所にありますが、それがまだ分からない二人の弟子に、
イエズス様が言われます。

イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。
このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』
 
(マルコ10・38)

 つまり、「イエズス様と食事をする」、それはイエズス様の受難、死と復活にあずかる決意を
心の中に宿らせることです。

 ミサの流れの中で、その心をいつも新たにするために「み言葉の祭儀」が設けられていますが、
その心は続いて教会の信仰の告白(信仰宣言)と集会の祈り(共同祈願)によって表します。

 その後、「その心」を祝うために、感謝の祭儀(エウカリスチア)が始まります。
 黙示録の言葉を借りれば、イエズス様の“ノック”に応えて心の戸口を開くときです。


 大むかし中世の時代、ミサの「み言葉の祭儀」が終わった時に、ここまで参加していた
洗礼志願者たちも、教会から退席させられる習慣がありました。彼らには「感謝の祭儀」の神秘に
近づく力がまだなかったからです。

 現代にも子どもの「初聖体」という時期が設けられています。その理由は、子どもの成長に伴って、
エウカリスチアの神秘を十分理解しているかどうか確かめなければならないからです。

 カトリック教会の信仰を完全に分かち合っていない他のキリスト信者もこの点で関わりがあります。
ミサの聖体拝領に与ることはできないからです。ベネディクト16世は次のように教えてくださいます。

聖体と、教会の一致との本質的なつながりによって、わたしたちは、キリストを信じるすべての人
とともに感謝の祭儀を行うことができる日が来ることを熱心に待ち望むよう促されます。
その日、わたしたちは、キリストが弟子たちに望んだ完全な一致を目に見える形で
表すことができます。(ヨハネ17・21参照)。他方、…聖体は、わたしたち個人のイエス・キリストとの
交わりを表すだけでなく、教会との完全な交わり(communio)をも意味します。
だから、わたしたちは、残念ながら、しかし希望をもって、カトリック信者以外のキリスト者に、
わたしたちの確信を尊重してくれるようお願いするのです。
この確信は聖書と聖伝に基づくものだからです。わたしたちは、聖体の交わりと教会の交わりは
密接につながっていると考えます。ですから、カトリック信者以外のキリスト者が、
教会の交わりをもつことなしに聖体の交わりを受け入れることは一般的には不可能です。
(「愛の秘跡」56番 ベネディクト16世)

わたしたちが皆信仰を一つにして、「教会の一致」を表すご聖体拝領ができることはなんと
素晴らしいことでしょう!

マリア様とともに、わたしたちの内の神さまの御宿りの神秘に近づきたい。そうすれば、わたしたちの
ためにも、あのエリザベトの言葉が実現するでしょう。

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、
なんと幸いでしょう。
(ルカ1・45)


エウカリスチアは「信仰の神秘」だからです。

 

 ではまた来週!!

 


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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