ミサの奉納はささげもの

―主任司祭メッセージ 10/11―


 ミサのエウカリスチアの典礼(感謝の典礼の部)の初めに奉納が行われます。

 集会(わたしたち)は奉納のために必要な材料をイエズスさまのもとに運びます。
この典礼的動作はとてもカラフル(多彩)になる場合があります。
 例えば、主日や他の祭日に奉納を祭壇に運ぶ時は、必ず奉納行列が行われます。
それは集会(わたしたち)がミサの奉納に参加する動作を表します。
 その材料となるもののうち欠けてはならないものは、パンとぶどう酒です。
それはイエズスさまが最後の晩餐のときに、必要とされたからです。

 祭壇でそれを受けるのは祭司です。祭司はイエズスさまの“しるし”であるからです。
 この奉納の動作は何を表しているでしょうか?
 それはその材料をささげるにあたっての司祭の言う言葉にあります。

神よ、あなたは万物の造り主、
ここに供えるパン(ぶどう酒)はあなたからいただいたもの、
大地の恵み、労働のみのり、
わたしたちの(永遠の)「いのちの糧」となるものです
   と。

 つまり、そのパンとぶどう酒のしるしを通して神さまからいただいているいのちを、わたしたちが
イエズスさまの御手にゆだねるのです。
 それは何のためでしょう?
 この「地上のいのち」がわたしたちの「永遠のいのちの糧」となるためです。
 ヨハネの福音書にあるエピソードが大変参考になります。

イエスは目を上げて、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
こう言ったのはフィリポを試みるためであって、
御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは
足りないでしょう」と答えた。弟子の一人でシモン・ペトロの兄弟アンデレが、
イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。
けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。
…イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。
また、魚も同じようにして、ほしいだけ分け与えられた。
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、
残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、
十二の籠がいっぱいになった。
(ヨハネ6・5〜10a、11〜13)

 「ここに…少年がいます」、これは大切なポイントです。
 この少年を見ましょう。ミサが行われるときも、集会つまりわたしたちが持っている材料は
「永遠のいのち」を養うことは、とてもできません。頼りにするもの、必要なものをわたしたちは
持っていません。わたしたちのいのちさえも消えるものです。

 この少年が持っていたお弁当の全部をイエズスさまの手に差し出したように、ミサの奉納は、
わたしたちの全部をイエズスさまの手におゆだねするときです。「永遠のいのちの糧」となることを信じて。

 他の場面でのイエズスさまのことばを思い出しましょう。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである」
(ヨハネ15・11)

 
 またイエズスさまは言われました。

…イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。
「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。」
(ルカ10・23)

 奉納の締めくくりとして司祭が祈る「奉納祈願」があります。例えば小さいイエズスのテレジアの
記念日にあたる10月1日のミサでは、このようになっています。

父である神よ、聖テレジアのうちに注がれたあなたの恵みをたたえて祈ります。
聖女の生涯を受け入れてくださったように、
      わたしたちの奉献をみ心にかなうものとして受け入れてください
   と。

 次回はミサの奉献文についてお話しましょう。また来週!




 


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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