キリスト信者のいのちの源泉と頂点であるエウカリスチア

―主任司祭メッセージ 10/18―


(信者は、)キリスト教的生活全体の源泉(いずみ)であり頂点である聖体のいけにえに参加して、
神的いけにえを神にささげ、
そのいけにえとともに自分自身をもささげる。
(第二バチカン公会議 公文書140頁)

 ミサの中心は「奉献文」といいますが、さらにその奉献文の中心はエピクレシスといい、エピクレシスに
続くイエズスさまのお言葉は次のようになっています。

主イエズスはすすんで受難に向かう前に
パンを取り、
感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを取って食べなさい。
これはあなたがたのために渡される
わたしのからだである。」


 続いてぶどう酒の上にも同じことを言われます。

 奉納の時にわたしたちが信じてイエズスさまの御手におささげしたパンとぶどう酒の
ささげものが、この時、聖変化のことばによって、イエズスさまの御体と御血になり、
父でおられる神にふさわしい「愛のささげもの」となるのです。
 つまりイエズス様の「お言葉」によってパンとぶどう酒の「かたち」のものは、イエズス様
ご自身となります。その「かたち」のもとに、イエズス様の現実の現存が存在することになるのです。
 こういう理由でエウカリスチアが教会のいのちの「源泉と頂点」であることがわかります。

 奉献文のことばは決まっていて自由につくることはできません。「一つの祈り」と
なっているからです。
 司式者の司祭が一人でささげる祈りですが、ただ他の司祭と一緒に行われるミサでは、
「取り次ぎの祈り」といわれる奉献文の部を他の司祭が行うことができます。

 また日曜日と祭日のミサでは奉献文を歌うことがふさわしいのです。

 奉献文の祈りの偉大さは、叙唱の部から始まるところからも分かります。
 叙唱はその日の典礼に合わせて成り立っていますが、司式者の次のすすめから始まります。

主は皆さんとともに。
また司祭とともに。
心をこめて神を仰ぎ、
         賛美と感謝をささげましょう 
   と。   

 つまり叙唱は、集会へのすすめとしてあって、わたしたちは天(神)を仰ぐようにと促されます。
ミサ(エウカリスチア)は天と地をつなぐ神秘であることは、この言葉からでもわかるでしょう。

 奉献文全体の話は次回に続けたいと思いますが、まとめとして強調したいことは次のことです。
 ミサの奉献によってご自分をおささげになるキリスト様とその奉献に、「わたしたちが現実的に
加えられる」ということです。こうしてこそ、エウカリスチアは新しいいのちの源泉となるでしょう。

女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。
どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。…」
イエスは答えて言われた。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、
永遠の命に至る水がわき出る。」
(ヨハネ4・11、13)




 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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