「今」…「この」そなえもの
―主任司祭メッセージ 11/8―


 司祭の手を通して、わたしたちがイエズスさまにささげたパンとぶどう酒のそなえものの上に、
司祭は、手を伸ばして祈る奉献文の始めにこう言います。

まことに とおとくすべての聖性の源である父よ、
いま 聖霊によって この 供えものを
とおといものにしてください。

それから、その上に十字架のしるしをして続けます。


わたしたちのために主イエズス・キリストの
御からだと + 御血 になりますように。

奉献文の上記の部分をエピクレシスということをすでに学びましたが、聖変化のことばに続く
アナムネシスは同じく次のようになります。

わたしたちは いま
主イエズスの死と復活の記念を行い、
ここで あなたに奉仕できることを感謝し、
いのちのパンと救いの杯をささげます。

それから

キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、
聖霊によって 一つに 結ばれますように。

  「今」「この」または「ここで」というところに注意して話を進めてみたいと思います。
 
これらのことばは「時間」と「場所」を示すものです。
 
つまり、ミサはわたしたちのためになるように、「ある時」と「ある所」でささげられる
イエズスの祈りであることを意味しています。
 イエズスさまの「エウカリスチアのおくりもの」によって、人々は「いつでも」「どこでも」イエズスさまの
ミサにあずかり、それに加えられて、イエズスさまのささげものにともに参加することができます。

 「昔」も「今」も、「いつも」「どこでも」、同じエウカリスチアであるので、世界中の人々がイエズスさまの
もとに一つとなることができるのです。

パウロが言われます。

洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、
キリストを着ている…。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、
奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
(ガラテア3・27〜28)

 洗礼と信仰によって、キリストさまと一つにしていただく決心は、ミサの時、わたしたちがいつも
新たにするものです。その保証となるものはご聖体拝領で、わたしたちは身体を通して味わうのです。

 使徒ヨハネが言われます。

わたしたちの交わりは御父と御子イエス・キリストとの交わりです。…
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。
兄弟を愛しているからです。…わたしたちが愛するのは、
神がまずわたしたちを愛してくださったからです。…
目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することができません。
(Jヨハネ1・3b、3・14a、4・19、20b)

ミサは、いつも新たにわたしたちに愛の掟を思い出させてくれます。わたしたちと同じミサをささげる
兄弟姉妹たち、ことに苦しんでいる兄弟たち、また信仰のために迫害を受ける人々との一致を
思い出させてくれます。

ウビ・カリタスの歌にあるように、「愛といつくしみのあるところに神はそこにおられます。」





 ではまた来週!






カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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