手を上げて祈る
―主任司祭メッセージ 11/29―


だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、
清い手を上げてどこででも祈ることです。
(Jテモテ 2・8)

 イエズスさまも「手を上げて」祈る習慣があったので、初代教会は手を上げて祈っていました。
ミサの中で司祭は、今も同じように「手を上げて」祈ります。その動作(姿)は何を示すのでしょう。
 それはきっと、祈りが天と地をつなぐことを表すのでしょう。ミサは初めから終わりまで
「神秘 (神さま) 」をつなぐ「しるし」で成り立っています。またミサそのものは、「しるし」となる
動作を超える見えない神さまとのつながりを示し、また行う「祈り」です。

 今回、司祭の手とわたしたちの手の位置に、少し注意をして話をしたいと思います。
 例えばミサの奉納のとき、いつもわたしたちの手は開いていて、「ささげたり」、
「いただいたり」する手の動きです。
 また最後の晩餐の記念が行われるとき、司祭を通してイエズスさまは御手にパンと
ぶどう酒の杯をいただき、献げて…、「これを行いなさい」と言ってお配りになります。

「…これを取って食べなさい。
これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)。」
「…これを受けて飲みなさい。
これはわたしの血の杯、
あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる
新しい永遠の契約の血(である)。
これをわたしの記念として行いなさい。」


 「手の位置」はいつも開かれていて、「差し上げ」たり「いただい」たりする姿です。
 この手の姿は神さまの手の姿であり、またわたしたちの手の姿でなければならないと
教えられています。
 この姿にこそ「いのち」が存在し、また「愛」があるからです。
 神さまがいのちの「源」であり、「愛(アガペー)」でおられるから、その手も開かれており、
また人間も神さまから愛を学び、愛することによって神の子どもとして生きることを学びます。

 実は神さまのこのみ心は、創造のときからのものでした。
 創世記の「蛇の誘惑」の話に次のようにあります。

蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、
園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、
死んではいけないから、と神さまはおしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。…」
(創3・1〜4)

 もう一度イエズス様のお言葉に戻りましょう。
 イエズス様は、「取って食べなさい」と言われますね。「取って食べなさい」は、神さまの
「愛するまことの心」を表していることばです。つまりこの「取る」は、イエズス様の御手から
いのちの実を「いただく」ことです。これこそ人間の元の「幸せ」です。

 人間は誘惑者に騙されて、いのちが「いただきもの」であるのに、「奪い取るもの」として
いのちの木から実を取りました。この行いは原罪と呼ばれ、その時から人間は「騙されて」
いのちは「奪い取るもの」だと思い、まことの幸せへの道に迷っています。
 また、そのときからわたしたちは、「手を上げて祈る」ことを怖がるようになりました。

 詩編のことばを借りて祈りたいと思います。

主よ、わたしはあなたを呼びます。
すみやかに私に向かい、あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。
わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとして
高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください

(詩編141・1〜2)

 また、待降節に入った今、教会の祈りをささげましょう。

“霊”と花嫁とが言う。「来てください(マラナタ)。」
これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は価なしに飲むがよい。
(ヨハネ黙22・17)






また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

しばらくの間、ミサそのものをテーマにしてメッセージを続けていきます。


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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