わたしは道・真理・命
―主任司祭メッセージ 5/10―



トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。
どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。・・・
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。
「フィリポ、こんなに長い間いっしょにいるのに、
わたしが分っていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」
(ヨハネ 14・5〜6、8〜9a)

 神様は人間となられてわたしたちに「身近な存在」となられたおかげで、
わたしたちは主イエズス・キリストのもとで人のあこがれを示す3つの素晴らしいもの、
つまり道・真理・命を手に入れることができるようになりました。

 しかしこの時、弟子たちはイエズス様と共に居たけれどイエズス様を信仰の目で見ることが
まだできていなかったので、そのあこがれ、道・真理・命を手に入れることができなかったのです。
イエズス様の近くにいたけれども、イエズス様を見抜くことがまだできていなかったのです。

 使徒パウロはこのように書いています。

では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが述べ伝えている信仰の言葉なのです。・・・
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
(ローマ10・8、10) 

 ここに、心の目、つまり視力としての信仰の感覚について教えられています。心の目がなければ、
見てもわたしたちは道・真理・命であるイエズス様に近づくことはできません。

 チコちゃんが主人公のNHKの番組「コアラはどうして木の枝に抱き着いて生活するの?」
そこでいろいろな人に訊ねます。2,3歳の女の子を抱いている母の家族に聞くと、一番先に
答えるのは女の子でした。「コアラはコアラだから。」みんなが笑います。
 それから頭を絞ってさまざまに答えます。わたしが感じたことは、あの女の子の返事は、
こころの感覚からの返事、信仰から来る返事でした。神さまの当たり前の世界とつながっている
答えだと感じました。

 わたしたちは信仰の目の感覚から来る返事を、あまりにも大事に思わないところがあります。
頭からの返事を好みます。そこから傲慢、差別、また絶望が生まれてきます。
人は自分の力で手に入れるものだけで生きるのではなく、天と地によって生きています。
そうでなければ、人は「物」となり、天が奪われ「いのち」が奪われていきます。

 天と地、魂と肉で成り立っている人間は、「物扱い」されることになると、
もともと神さまが造られた世界はその「バランス」を失い、地はわたしたちの「敵」に
変えられてしまいます。

 人間となられたイエズス様が教えてくださること、それは信仰の目で人を見ること、そうでなければ
道・真理・命でおられるイエズス様にもお会いできないでしょう。

 イエズス様のもとで、天の国が近づきました。 
 イエズス様のもとで、死に勝ち、復活が訪れました。 
 イエズス様のもとで、わたしたちも道・真理・命を見出し、それらを手に入れることができました。

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、
「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
(マルコ10・51〜52a)





イエズス様、わたしたちも見えるようにしてください




カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン



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