あなたがたに平和
―主任司祭メッセージ 5/17―



その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは
ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和…」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
(ヨハネ 20・19〜20)

 イエズス様のこれらの言葉は、あいさつの言葉ではなく、福音のおとずれを宣言する言葉です。
もう死の支配はない。
 今や、いのちは完全に死に打ち勝ち、
 今や、平和つまり人の救いがおとずれ、
 今や、天と地がつながった。

 日本語で「平和」、ヘブライ語で「シャローム」。
日本語で表現すると禾(いね)と口を書いて平和を表しますが、ヘブライ語では火(炎(ほのお))で
表され、清めと、地から天に昇るものとして表現されます。

 わたしたちは「信仰の目」の感覚によって、少しずつこの世を見る力を受けて成長しますが、
それに伴い、上記の聖書の言葉もわかるようになります。
弟子たちは大きな喜びをもってイエズス様の手とわき腹とを見たのです。

 人の心の中に良い麦だけでなく、悪い毒麦もまかれたのです。(参照:マタイ13・24〜30)
 死に勝たれた主は、この悪いものにこそ勝たれ、その傷はもはや死を表すものではなく、
新しいいのちの訪れのよい知らせ(福音)となっているからです。
ここには弟子たちの喜びの原点があります。

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
(イザヤ53・5b)

 コロナウイルスに縛られて、わたしたちはもう三か月目に入り、主の勝利を祝うために集まって
ミサを捧げることも未だできない状態です。主の受難に結ばれているこの悲しみの時は、
きっといつか喜びの時に変わるでしょう。

 感謝の祭儀であるミサこそ、主イエズス・キリストとの出会いの場です。
 ミサの中でイエズス様はいつも新たにパンと葡萄酒をとってその上に感謝をし、
こう言われます。「これはあながたがたのためにわたされるわたしのからだです」と。
つまりわたしたちの「死にまみれたいのち」は、もう主のいのちとつながっています。
 ここにわたしたちの平和の原点があり、わたしたちの喜びの源があります。

 主イエズスは昇天されて、天と地を永遠につないで下さり、わたしたちを
その勝利の祝福のうちにいつまでも生きる恵みを注がれています。

イエスは、そこから彼らをべタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
(ルカ24・50〜53)




カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン



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