彼らは皆…心合わせてひたすら祈っていた
―主任司祭メッセージ 5/24―



彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、
またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

(使徒言行録 1・14)

 ここに初めて、イエズス様の弟子たちの祈る姿が書かれています。

 イエズス様の地上の生涯の間、弟子たちは常に祈っているイエズス様の姿を見てきましたので、
「わたしたちにも祈ることを教えてください」とお願いしたとき、イエズス様は「主の祈り」を
教えてくださいました。しかし、本当にイエズス様と心を一つにして祈る力が
彼らにはまだありませんでした。
ゲッセマネの園で、イエズス様は弟子たちに一緒に祈るようにと願われますが、
彼らは結局眠り込んでしまい、一緒に祈ることができませんでした。(参照:マタイ6・36〜44)
 十分イエズス様と心一つになっていなかったからです。そのためにイエズス様の受難の時が来ると
皆逃げてしまいました。

 だが今は違います。イエズス様の死と復活を知ったうえで、つまり彼らは新しい目(信仰の目)で
イエズス様が「主である」ことを知ることができ、ようやくイエズス様の祈りに加えられて
祈ることができるようになりました。

 教会はイエズス様の祈りに加えられた「祈る民」です。わたしたちは一人ひとりイエズス様に
愛されて、その愛に目覚めて応えることによって、教会の者となりました。
 わたしたちは数多く、異なっている兄弟たちですが、一人ひとり個人として愛され、
また愛することを祈りを通して学んでいくのです。つまり、祈りは教会の祈りであると同時に、
教会の者であるわたしたち一人ひとりの祈りでなければなりません。パーソナルで、
イエズス様とのハートとハートを結ぶ応答です。

 教会として祈ること(ミサなど)が、ウイルスのために今できない状態の中だからこそ、
個人として祈る尊さが思い起されます。
 この祈りの三つの特徴を述べると、
 1. わが心の友であられる“イエズス様なしにわたしたちのいのちはない”という感覚を育てること。
 2. イエズス様と一緒に毎日わが身を“捧げて”生きること。
 3. 兄弟愛を学ぶことによって、イエズス様の家族の一員となり、それを通してイエズス様と
    一緒に天の父に向って祈ること。
こういう風に祈ることを学ぶならば、わたしたちのためにもペトロの言葉が実現されます。

心の中でキリストを主とあがめなさい。
あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、
いつでも弁明できるように備えていなさい。
(Jペトロ3・15)

 その希望はキリストです。

 家の上の部屋(チェナクルム Coenaculum)で心一つにしてひたすら祈っていた使徒たち、
婦人たちやイエズスの母マリア、また他の兄弟たちに合わせて、わたしたちも心一つになって祈り、
イエズス様の言葉をいつも思い出したいと思います。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく
思い起こさせてくださる。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
(ヨハネ14・25〜27a)







カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン



主任司祭メッセージのバックナンバーは更新記録へ