平和のおくりもの
―主任司祭メッセージ 1/10―


 

 ベツレヘムでマリアさまからお生まれになった全能の神は、全宇宙とすべての人々に「平和」を
もたらされました。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。」
(マタイ 1・21)

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエとル呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイ 1・23)

とあるとおりです。

 こうしてこの時からこの世が終わるまで、キリストを信じるわたしたちは、この「平和」のおくりものを
携えて、世界中に派遣されています。

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に
二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。
「…どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。…」
(ルカ 10・1〜2a、5〜6a)

「…だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイ 28・19〜20

 だから、イエズスさまこそ全能の神からの「平和」のおくりものですね。また、イエズスさまは
「平和の君」
(イザヤ9・5)として、いつもわたしたちと共におられます。
 どこにおられるのでしょう?
 イエズスさまは、人間となられた全能の神でおられるので、いろいろな「かたち」でわたしたちの
うちにおられます。
 まず、人のうちに、区別なく人そのもののうちにおられます。それを示すイエズスさまのことばがあります。

「… 王は答える。『はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこのもっとも小さいものの一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。』…」
(マタイ 25・40)


 イエズスさまは次のようにも言われます。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいるのである。」
(マタイ 18・20)

 またさらにすぐれた「かたち」があります。それは、わたしたちを御自分と一つにしてくださるミサです。
奉献文の聖変化のあとで、司祭は次のように唱えます。

キリストの御体と御血にともにあずかるわたしたちが、
  聖霊によって一つに結ばれますように
    と。

 この時こそが、わたしたちを「教会」としてくださるイエズスさまの独特なおくりものの表れなのです。
これがエウカリスチアのおくりものと言われます。秘跡と云う 優れた「かたち」によって、イエズスさま
ご自身が世の終わりまでわたしたちと出会い、わたしたちを御自分と一つにしてくださいます。

 イエズスさまとの出会いによって、人間は「新しい人」として生まれ、成長し、人々との間に
まことに満ちた愛の関係をつくり、キリストにあやかり「神の子」として生きる者となります。
 イエズスさまの次のことばがミサの中で唱えられるのはとてもふさわしいことです。

「…わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」
(参照:ヨハネ 14・27a)

 イエズスさまこそ平和をつくる方です。また、イエズスさまがくださる平和のおくりものは、
何よりも強いものです。パウロの次の言葉を思い出しましょう。

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
いっさい高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。
愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、
霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと
同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は
唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、
すべてのもののうちにおられます。
(エフェソ 4・1〜6)

 キリストは平和のおくりものですから、わたしたちの毎日のすべてがその平和に包まれています。
辛い試練の中にある今の時も、皆さんにキリストによる平和が与えられますように、ごいっしょに
祈りたいと思います。





カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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