平和をもたらす人々は幸い
―主任司祭メッセージ 1/17―


 

 「平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」
(マタイ 5・9)

 このことばは、イエズスさまが教えられた真福八端(「山上の説教」の冒頭部分 マタイ5・1〜11)
の一つです。
 この人々とは、平和をもたらす「平和の君」として来られたイエズスさまと一つになり、「イエズスさまに
従って歩む」人々のことでしょう。つまりキリストの体(教会)となっているわたしたちのことですね。
はじめに、わたしたちは洗礼によってキリストを信じて生きることを宣言しました。そしてキリストの
真福八端のことばに従って歩むことを決心したからです。

 でも具体的にどういうふうにしてわたしたちは平和をもたらすことができるでしょう?
 みんながグレタ・トゥンベリさんのように、地球のために身をかけて活動したり、あるいは中村哲医師の
ように、アフガニスタンに行って、水を引くプロジェクトを起こしたりして、平和を実現しなければならない
のでしょうか。
 教皇様が新年のあいさつの中で示して下さった道、みんなが歩むことができる道、それは兄弟愛を
もっていたわり合う道です。
 イエズスさまは言われました。

『…互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように…』
(ヨハネ 13・34b)

 神さまは「平和な世界」をつくられました。この「平和」を司るようにと、ご自分の息吹によって、
生きる者となった人間をそこに置かれました。こうして天と地、神さまとその世界は人間のもとで
平和を抱き、幸せに満ちた世界でした。
 ところが、罪によってこの世界に不幸と死が入りました。しかし、神さまはこの世界を再び平和に
戻すために、ご自分の御子を「平和の君」として、また「救い主」としてお遣わしになりました。
 救い主キリストの十字架によって、つまり「愛のささげも」によってそれを実現されました。
 それから今、そして時の終わりまで、その平和を実現するために、神さまはキリストを信じるわたしたちを
派遣してくださいます。

 平和は武器や暴力によって、また何らかの人間の工夫によって、実現されるものではありません。
平和はすでにわたしたちに与えられています。また、その道もすでに開かれています。
 神さまは愛であり、いつくしみであられるからです。

 パウロによれば、この平和への道は次のようなことばで記されます。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも愛がなければ、
わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
愛がなければわたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
(Jコリント 13・1〜8a)


「平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」
 と言われる通りです。

          

 わたしたちはみな置かれた場所で、つまり自分の毎日の中で、神さまのくださる「キリストの平和」に
あずかることができますように。また、その平和を周りみんなに もたらす幸いを知ることができますように。





カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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