アシジの聖フランシスコとキリストの平和
―主任司祭メッセージ 1/31―


 

 アシジの聖フランシスコは平和の「使徒」として知られています。平和を願う次の祈りも聖フランシスコの
祈りとして知られています。

   神よ、わたしを平和のために働く者としてください。
   
憎しみのあるところに 愛を、
   
争いのあるところに ゆるしを、
   
分裂のあるところに 一致を、
   
疑いのあるところに 信仰を、
   
誤っているところに 真理を、
   
絶望のあるところに 希望を、
   
闇に光を、悲しみのあるところに 喜びをもたらす者としてください。
   
慰められるよりは 慰めることを、
   
理解されるよりは 理解することを、
   
愛されるよりは 愛することを求めますように。
   
わたしたちは 与えるから受け、
   
ゆるすからゆるされ、すべてをささげて永遠のいのちをいただくのです。

 今の教皇フランシスコも、アシジの聖フランシスコの模範に惹かれて、パパ様として初めて、
フランシスコという名を選ばれ、聖人のこころから学んで教会を導いておられます。
 
わたしたちカトリック百合ヶ丘教会も、アシジの聖フランシスコにささげられた教会なので、
正式には「アシジの聖フランシスコ教会」であり、フランシスコから「平和の道」を学びたいと思います。

 どうしてアシジの聖フランシスコは、キリストの平和の優れた模範になられたのでしょうか?
 
実は、フランシスコはその生涯の若いときに、自分の抱えていた夢がすべて崩れる経験をしました。
そこで、思わぬ新しい自由を見出し、神さまを賛美して生きる新しいこころをいただきました。
 作家G・K・チェスタトンによれば、フランシスコはその経験により、世界を逆さまにみるようになったと
言います。これを読んで、わたしは逆さ富士の写真を撮る人の気持ちや、天の橋立を股の間から
のぞくと“天から降る龍のように見える”話を思い出しました。
 
 
これと違ってフランシスコの経験は、“心の感覚がガラッと変わる”というものでした。
 教会のことばで、これは「回心」といわれますが、普段わたしたちはその言葉を聞いても、なかなか
ピンと来ません。フランシスコは「逆さまの世界」を見ることができるようになったうえ、神さまの御手から
ピカピカの“新しい世界を見る目”をいただいたのです。そして、すべての被造物(存在するものすべて)
を「兄弟姉妹」として見るこころが生まれました。

 こうして、聖フランシスコの「賛美する心」から引用して、パパ様は、「ラウダート・シ」(2015 年に
教皇フランシスコによって発表された社会回勅。 “わたしの主よ、あなたはたたえられますように”
[ラウダート・シ・ミ・シニョーレ]で始まる)を書かれました。それは、エコロジーと世界の平和についての書簡です。

 回心、それはわたしたち一人ひとりに対する神さまの愛に目覚めることですね。きっとわたしたちが
閉じ込めている世界(自分を救おうとして わたしたちがつくる世界)の壁を破り、“逆さまになる経験”
がなければ、聖フランシスコのいう新しい世界を見ることはできないでしょう。
 
キリストの恵みによって、わたしたちもフランシスコと同じように、キリストのもとに実現された新しさに
満ちた世界に移ることができるのです。
 
わたしたちは普段、地に目を向けて平和をつくろうとします。でも平和は上からでなければ… 
つまり天を仰いで生きることを学ばなければ、平和はないでしょう。この世だけを見ていては、死に
向かっていくしかありません。
 
「地震、雷、火事、おやじ」のことわざのように「地震」が最初にありますね。確かに地震はありますが
「天震」はないですね。その通り、天を仰いで生きる恵みをいただいた人々にとっては、地震もなく
不安もなく平和だけ、そして賛美と感謝する心があります。

 皆が天から地を見る“逆さまに見る恵み”があるようにと、平和の聖人フランシスコに願いたいと
思います。子どものこころをもって。

 ご一緒に詩編131篇を祈りましょう。

主よ、わたしの心は驕っていません。
わたしの目は高くを見ていません。
大き過ぎることを
わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
わたしは魂を沈黙させます。
わたしの魂を幼子のように
母の胸にいる幼子のようにします。
イスラエルよ、主を待ち望め。
今も、そしてとこしえに。
(詩編 131)

  




また来週!

カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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