平和は和解 和解はキリスト
―主任司祭メッセージ 2/7―
平和の聖人 アシジの聖フランシスコのおかげで、その故郷の町アシジも、平和の象徴として
知られることとなりました。
1986年10月に初めて、世界諸宗教の代表者がここに集まり、平和のために祈りました。
その集まりを呼びかけられた聖ヨハネパウロ2世は、はじめの挨拶でこのように言われました。
『わたしの確信していることをここに謹んで申し上げます。平和はイエズス・キリストの名前をもって
います』と。その時から毎年日本の比叡山でも、アシジの心をもって平和のために祈る諸宗教の
集いが行われています。
確かに、平和を願うこころは、人間の心です。でもどうして人間の世界には、平和がないのでしょう。
きっと、人間には「選ぶ力(自由な意思)」があるからでしょう。また同時に人の心に罪が入って、
神さまが創造された世界の秩序に「不従順」が入ったからでしょう。
こうして今もいつも、人は神さまからの“おくりもの”としての平和を「願う」のです。実は、人間が
「選ぶ」平和への道は、罪に勝つこころの「回心」の道でなければなりません。
しかし人は、よく動かない機械に対してと同じように人に対しても、外からの知恵や暴力の道を
選んでしまいます。ゲームのルールと同じように、「法」やシステムを作り上げる道を選びます。
使徒パウロもこの法の道を信じて、熱心に教会を迫害し、キリストを迫害してしまいましたが、
神さまからの回心の恵みによって、ガラッと変えられることになりました。
このこころの転回は「パウロの回心」と言われ、パウロの中に「新しいパウロ」が生まれました。
年をとったパウロはその後継者テモテに、次のように言います。
…律法は、正しい者のために与えられているのではなく、
不法な者や不従順な者、…のために与えられ、… ると。
(Jテモテ 1・9b〜10)
つまり、人の外からではなく、人の内、人のこころから平和は実現されるものですね。
エフェソの手紙にあるパウロの言葉を聞きましょう。
…あなたがたは、以前は遠く離れていたが、
今やキリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、
キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
規則と対立ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方を御自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、
十字架によって敵意を亡ぼされました。
(エフェソ 2・13〜16)
ここで注意させていただきたい言葉は「和解」です。つまり、和解は平和への道ですね。
わたしたちはたびたび、平和を「安定」によるものと思いがちです。この考え方はある意味で
正しいことです。何故なら、いのちが成長するためには、安定が必要です。例えば、家庭や
仕事など…。しかし、他方から見ると、わたしたちは「旅人」です。「わたしたちはこの地上に
永続する都をもっておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13・14)と聖書が
言うように…。だから、わたしたちがつくろうとする「安定」から、神さまはいつも追い出そうとさ
れますね。
わたしたちの本当の安定は、神さまの愛にあるからです。わたしたちのまことの安定は「キリストを
信じること」であって、キリストはすでにご自分の肉において、平和をつくられました。ご自分の肉に
おいて、一つの体として神と和解させてくださいました。(参照:ガラテヤ 6・2)
そうすると、わたしたちがいつも考える安定は、平和そのものではなく、「まことの平和」を指し示す
声なのです。信仰によって、キリストと一つの体になっているわたしたちは、今日もいつも「旅」をして
います。そしていつか、完全にその平和につながっていることが明らかになります。
それは、キリストがその栄光のうちにお現われになるときです。
平和はいつも「つくりつつある」ものです。そのために、キリストは、最初のおくりものとして、
教会に聖霊を送ってくださいました。パウロのガラテアの教会への言葉で終わりたいと思います。
…霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
…霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、
善意、誠実、柔和、節制です。
これらを禁じる掟はありません。
キリスト・イエスのものとなった人たちは、
肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、
霊の導きに従ってまた前進しましょう。
(ガラテヤ 5・18、22〜25)
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。
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