キリスト信者を、新たに回心に招く時が来ました。この期間は40日であることから、四旬節と
言われます。主イエス・キリストの受難 死と復活のお祝い日(祭日)、つまり主の過ぎ越祭への準
備の期間として設けられています。
その始まりは「灰の水曜日」ですが、この日の教会の典礼はわたしたちを「回心に招く」しるしとして、
『回心して福音を信じなさい』と司祭が言いながら頭の上に灰をふりかけます。
もう一つの、昔からの言葉は次のようです。
「(思い出しなさい。)あなたは塵(ちり)であり、塵にかえっていくのです」と。
つまりこの時は、信仰が教えてくれる「いのちについての深い意味」を思い出させてくれます。
とりわけ、わたしたちの「死に至る生き方」から、その方向を変えて正し、「いのちに満ちた
生き方」に向くようにと教えてくれるのは信仰です。
キリストを信じることによって、その福音にあずかることが可能になります。
実は、死へと向かわせる悪の力が わたしたちの中に働いています。それを例えてみれば、
今流行っているコロナにも似て、病気を運ぶ人の息です。
しかし一方で、わたしたちの生き方を正し、いのちの実を結び、キリストを信じることによって
与えられる聖霊の恵みがあります。聖霊こそ神さまの息吹き、永遠のいのちを支える息吹きです。
ここで信仰による回心から生まれる「新しい人」とはどのような人でしょうか?
次に紹介させていただく文章は、1597年2月5日長崎で殉教した日本二十六聖人について、
当時目撃した人が書いたものです。
…パウロ三木は、今まで自分が立っていた最も誉れある演壇に立っていることを見て、まず群衆に
向かって自分が日本人であり、かつイエズス会士であることを述べ、福音を宣べ伝えたために死刑
に処されると言い、このすばらしい恵みをいただいたことを神に感謝すると述べて、次のように語っ
た。「今このような時を迎えて、わたしが偽りを語るとは、どなたも思わないでしょう。ですから
あなたがたに宣言します。キリスト者たちが信じている道の他には、救いへ導く道はありません。
キリスト教がわたしに、敵をゆるし、わたしに害を及ぼしたすべての人をゆるすように教えている
ので、関白殿と、わたしを死刑に処するすべての人を喜んでゆるし、キリスト教の洗礼を受ける
ことを決心するように彼らに願います。」
それから、パウロ三木は仲間に目を転じ、この最後の戦いに挑むように彼らを励ましはじめた。
皆の顔には喜びの表情があったが、特にルドビコ茨木少年の顔がそうであった。群衆の中のキ
リスト者の一人が彼に向って、「君はまもなく楽園に入るよ」と叫ぶと、ルドビコは腕と体全体に
喜びをみなぎらせ、見物人たちの目を自らの方に引き付けた。(『毎日の読書』年間1 より)
パウロ三木やルドビコ茨木少年は、神の恵みにより「新しい人」となり、聖霊の実りとして殉教と
いうあかしをたてました。
聖霊によって、キリストご自身が 多くの兄弟の初穂として、マリア様からお生まれになりました。
子どもは誰でも親から学びます。「親の背中を見て育つ」と日本では言われますが、また、子どもは
親の目を見て確かめて行動することもあります。
イエズスさまは、天の父を仰いで学ぶように教えて下さいましたが、人となられ、また身近な存在と
なられたキリストからわたしたちは学ぶのです。