キリストの「いのちのことば」からわき出る「感謝と賛美」
―主任司祭メッセージ 3/7―


 

 ことばは、こころを表します。神さまも「言 (ことば)」を通して聖心(みこころ)をあらわされます。
 神さまは、初めに「創造」によって そのこころをあらわされましたが、最後の「御ことば」はキリスト
です。
(参照 ヘブライ1・1〜2)
 
聖書の初めに、このようにあります。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、
闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」
こうして、光があった。…
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
見よ、それは極めて良かった。
(創世記 1・1〜3、31a)

 神さまが創造された人間も「極めて良かった」ので、神さまと人間の交わりも「いのちのことば」に
満ちていました。
 しかし、人間のこころに罪が入った時から、人間のことばにも「死」が入りました。罪は死をもたらす
ものですから、コロナに例えられるかもしれません。
 この罪の中にいる人間を救うために、神さまは人間となられました。キリストの恵み、聖なる息吹に
よって人は新たに「いのちのことば」を語れるようになりました。その恵み(グラチア)は、回心(こころ
を新たにする)の恵みです。

 ご聖体拝領の前に、司祭の招きのことば「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い。」に対して、
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう。
と会衆が応えます。
 実はこれらのことばは、もともと次のようにヨハネ福音書に書かれています。

…弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れていきたいか」と言われた。
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
(ヨハネ 6・66〜69)

 つまり、キリストと一つになるわたしたちも、キリストと共に今も「いのちのことば」を語ることができる
者となっているのです。
 「いのちのことば」がいつも聞こえたらいいのに! そうすればきっと、神への「賛美と感謝」がこころ
の中からいつも沸き出ることでしょう。
 「あり・がとう」さえ言わなくなるでしょう。「有 難い」の意味は、「ありえないこと」「めったにない
こと」なのですから。神さまの恵みは、めったにないことではなくて、有り余るほど、あふれるほど
わたしたちに与えられているのですから…。
 この世界にこそ いつも生きたいものですね。いつも「いのちのことば」が聞こえてくる世界に生き
られるように 願いたいと思います。

 ミサはこの感覚の世界ですが、それは「みことばの祭儀」と「感謝の祭儀」で成り立っています。
 「みことばの祭儀」とは福音です。つまり、神さまが行われた愛の業を思い出して語る(記念
する)Good Newsで,「本物」の良い知らせです。
  「感謝の祭儀」は、いつも「和解」を行われるイエズスさまのささげもので、その死を思い起こし、
復活をたたえる「あがないの愛」の神秘です! 主が来られるまで…続く主の愛の神秘です。

 この恵みの時である四旬節に、いつも「いのちのことば」を語る者となって、「賛美と感謝」を
ささげるこころを 願いたいと思います。










 また来週!

カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

主任司祭メッセージのバックナンバーは更新記録へ