最初の確信を最後まで
―主任司祭メッセージ 3/14―
世界中で行われる主の復活徹夜祭の典礼で、わたしたちは新しい兄弟姉妹を迎えるとともに、
わたしたち自身が受けた洗礼を思い出し、洗礼の約束を新たにします。
復活徹夜祭の司式者は、ミサの中で次のことばですすめます。
皆さん、わたしたちは主の過越の神秘によって、キリストと ともに葬られ、
キリストと ともに新しい いのちを生きる者となりました。
四旬節を終えた今、悪霊を捨て神に従うという洗礼の約束を新たにしましょう。
主の過越祭が近づくこの時、わたしたちの洗礼の「確信」を思い出していますが、パウロのことばを
聞きましょう。
兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、
生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、
「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。
わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、
キリストに連なる者となるのです。
(ヘブライ 3・12〜14)
「確信」とは、確かに信じることで、また信じることは、心の決心です。ですから、わたしたちは
キリストに連なる者となるために、洗礼ときの「心の確信」を いつも新たにするのです。
このパウロの言葉から、この確信にふさわしくない心と関連する二つの表現について、
ご一緒に考えたいと思います。
1.「信仰のない悪い心を抱く」こと、とはどんなことでしょう? 信仰のない心 それは「悪い」心と
ありますが、それはどういう意味でしょう? それは、信仰が「心の目」だからです。信仰が心の目で
あるとすれば、見えないときに「目が悪い」と言うのと同じですね。イエズスさまの奇跡の中に癒しが
働き、見えない人々に視力が回復する奇跡がよくあります。
2.「罪に惑わされて(こころが)かたくなにならないように」という表現がありますね。この時、
ここには本人(わたしたち)の責任が含まれています。なぜなら、心はかたくなになる可能性が
あり、その原因は罪であるからです。
このようなことにならないように、かたくなな心を癒す力、つまり「祈り」と「愛」が必要です。
わたしたちは皆、だれ一人「罪に惑わされ」ないように、「日々励まし合」わなければならないと
パウロは言います。
四旬節は、洗礼のときのあの「最初の確信」を最後までしっかりと持ち続けるよう、心を新たに
するためにあり、そのためにも「ゆるしの秘跡」にあずかることがふさわしいのです。
罪は、わたしたちの心の目を暗くし、神の子どもとして生きる力を奪い取ります。罪を認め、
「ゆるしの秘跡」を通してイエズスさまに告白し、神さまの赦しをいただくことにより、わたしたちの
心の目は浄められるのです。
パウロの言葉は次のように続きます。
「…今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」と。
(ヘブライ 3・15)
また詩編は、
主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
主に養われる群れ、御手の内にある羊。
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑にしてはならない。
あの時、あなたたちの先祖はわたしを試みた。
わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
四十年の間、わたしはその世代をいとい 心迷う民と呼んだ。
彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」 と。
(詩編95・7〜11)
3月19日 聖ヨセフの祝日
毎年、四旬節の間の3月19日に、教会は聖ヨセフの祭日
(最も大きなお祝い日)をお祝いします。
今年は、マリア様の夫で聖家族の保護者でもある聖ヨセフに
教会で特別に祈りを捧げるよう、パパ様が定められました。
この世界が直面している病気の危険から、教会の保護者でもある
聖ヨセフの取り次ぎにより、教会と世界が守られますよう
今年は特に祈りたいと思います。
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カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。
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