主の「当たり前」
―主任司祭メッセージ 3/28―
「主の当たり前」が、わたしたちの当たり前と同じならば、わたしたちは「主の救い」を必要と
しないでしょう。
けれどもイザヤの書に、「神さまの当たり前」についてすでに次のように書いてあります。
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者は そのたくらみを捨てよ。
主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち返るならば 豊かに赦してくださる。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ 55・6〜9)
どうしてでしょう?
「人間の罪」による神さまとの「ズレ」にそのわけがある、と聖書の初めに記されています。
(参照; 創世記3・1〜13)
人間は、神さまのお言葉を心から信じる代わりに、誘惑者に負け 目先のものに心を奪われて、
いのちの泉である「主の当たり前」から離れてしまいます。
「主の当たり前」それは「主のこころ」「主のみ旨」を表します。
イエズスさまはいつもわたしたちのこの傾きからわたしたちを正し、言葉と行いを通して導き、
わたしたちにいつも『ついてきなさい』と言われます。
「放蕩息子のたとえ」の中で、父は兄に向って次のように言います。
「…、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。
わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは、当たり前ではないか。』」
(ルカ 15・31〜32)
確かに、キリストを信じるわたしたちは、主の、この新しい「当たり前」を学ばなければ、
主の救いにもあずかることができないでしょう。イエズスさまご自身も、「御父の当たり前」に身を
ゆだねる試練、つまりその「受難と死」を通らなければならなかったのです。
ゲッセマネでイエズスさまは次のように祈られました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
(ルカ 22・42)
主イエズスは、今もミサが行われるとき、「父の当たり前」にご自分をゆだねて、愛のささげもの
として、ご自身をささげられます。わたしたちもそのささげものに加えられるために。
主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。(奉献文) と。
3月28日から始まるこの聖なる一週間は、「主の当たり前」に身をゆだねられた主イエズスに
よる 世界の「新しい創造」の始まりです。「罪と死」に打ち勝たれた主イエズス・キリストによる
救いの記念です。
ミサの心を新たにして、祈りたいと思います。
(すべての聖性の源である父よ、)
わたしたちは「いま」、主イエズスの死と復活の記念を行い、
「ここで」あなたに奉仕できることを感謝し、
いのちのパンと救いの杯をささげます。
キリストの御からだと御血に ともにあずかるわたしたちが、
聖霊によって一つに結ばれますように。(奉献文) と。
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。
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