「生きておられる方」はわたしたちの旅路の良い友
―主任司祭メッセージ 4/11―



 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、
今見なくても信じており、ことばでは言い尽くせない
すばらしい喜びに満ち溢れています。
それは、あなたがたが信仰の実りとして、
魂の救いを受けているからです。
(Jペトロ 1・8〜9)

 このペトロの手紙に、わたしたちの信仰のありがたさがよく記されていると思いますが、四福音書
には 主の復活の話について弟子たちのそれぞれ異なる信仰への歩みが書かれています。
 
その中のルカによる福音書に、「エマオへの旅」の印象深い話(ルカ24・13〜35)があります。そこに、
師の死によって落胆し途方にくれた二人の弟子について書かれていますが、その始まりの一部は
次のようです。

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから
六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、いっしょに歩き始められた。
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった
(ルカ 24・13〜16)

 ここには、わたしたち自身の信仰への旅路の「良い友」となられるキリストが表現されています。

 過越祭、つまりご復活祭の教会の典礼の中心となるものは「洗礼」で、「教会の信仰」に生まれる
礼であり、また「信仰のいのち」に生まれる洗礼でもあります。
 
入門式によって信仰への歩みを始めた求道者は、四旬節の初めに洗礼志願者となり、
その旅路の最後の段階で、聖なる過越の徹夜祭に入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体の秘跡)に
あずかり、「教会」に加えられた者となります。

 その徹夜祭から次の主日(復活節第2主日)までの8日間、つまり「終わりのない主の日」を示す
この期間に、その夜に洗礼を受けていた初代教会の人々は、「信仰の光」を表す白い衣を着続け
ていました。

 ちょうど今日(復活節第2主日)は、使徒トマスの信仰告白の話が朗読されます。「見ないと
信じない」と言ったトマスに、イエズスさまがお現われになり、このように言われました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

…「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ 20・27b、29b) 

 キリストを信じる、それはキリストが「死んで復活されたこと」を信じることですね。
 
つまり、わたしたちも死を通して、それは毎日の愛のささげものを通して、まことのいのちを生きるの
です。
 
これこそ、キリストさまがもたらされた この世の闇を照らす「光」、「十字架の栄光」です。

 わたしたちの旅路はみな異なり、良い友として語ってくださるイエズスさまの言葉も異なりますが、
キリスト信者を信仰に導く「ことば」は、必ずエウカリスチアに辿り着きます。

いっしょに食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか」と語りあった。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、
十一人とその仲間が集まって、
本当に主は復活して、
シモンに現れたと言っていた。
(ルカ 24・30〜34)

 こうして、次のパウロの言葉も もう少しわかりやすくなると思います。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
(ローマ 10・8b〜9)

 信仰の恵みによって、わたしたちは“すでに”また“永遠に”「主の日」に生き、また「神の子どもの
いのち」に生きる、わたしたちの主イエズス・キリストによって。

 また来週!




カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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