わたしたちの毎日を照らす「心の目」
―主任司祭メッセージ 5/2―
ルカの福音の書に、復活されたイエズスさまがその日に弟子たちにお現われになって「彼らの
心の目をひら(かれた)」(ルカ 24・45)、と書いてあります。
信仰はわたしたちの毎日を照らす 上からの「新しい光」、神さまがくださる「心の目」ですね。
人々は皆、知っています。まことの真実を知る道は、心を開く道であることを。
しかし、人間はこの道を疑います。
目先による真実を真実と思い、死より強い「心の目」だけに見えるまことの真実を「信じる」
力を、人は持っていません。その力の恵みをくださるお方はキリスト、天から来られた神さまです。
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
(マタイ 11・28)
信仰の恵みが開いてくれる真(まこと)のいのちへの道に入るために、人は先ず「言葉」を表す
しるしを読み取ることを学ばねばなりません。
洗礼者ヨハネは、イエズスさまこそ神がくださる「言葉」であり、自分は「言葉」ではないことを
教えるために、自分は「声」であると言います。通りかかるイエズスさまを指して「見よ、世の罪を取り
除く神の小羊だ。」(ヨハネ 1・29b)と言って、神の「言葉」キリストをお示しになります。
「神の小羊」だと聞いても、確かにわたしたちには分かりづらいかもしれません。その意味は、
どんなに神さまがわたしたちを愛してくださったかを示す言葉です。
いろいろなしるしを通して教会が語る言葉について、ここで少し述べさせていただきたいと思います。
子どものときの思い出を紹介します。
・80年前にイタリアで生まれ育った私は、小さいときから十字架につけられたイエズスさまにキスを
おくり、十字架に口づけすることを教えられました。その習慣をまだ身に着けていますが、日本に
来てからは、日本ではお辞儀をして尊敬を表すことを学びました。
実は子どもの私にとって、十字架につけられたイエズスさまの姿が、司祭になる深いわけの元と
なりました。小学生の頃、教会の「イエズスさまの友の会」(侍者や聖歌隊など)の子どもたちに
配られた御絵がきっかけでした。それは「十字架を背負った血だらけのイエズス様」の御絵でした。
その絵のイエズスさまの目は、見る人に向けられていました。そして、絵の下に書かれていた
言葉は、「わたしを手伝ってくれない?」とありました。
・少しずつ私がご聖体を礼拝するようになって、心を動かされたもう一つのしるしがありました。
それは、「アドロ・テ・デヴオテ」、“パンとぶどう酒の形態の元に隠れておられる神よ、わたしは
謹んで御身を礼拝いたします“というトマス・アクィナスの歌にもあるイメージで、「いとしのペリカン
主イエズス!」“ピエ ペリカネ イエズス ドミネ!”と呼びかける心でした。(ペリカンは餌が取れない
時は、自分の血を子どもに与える習性があり、伝説によると、中世ヨーロッパでは、自分の子ども
をとても大切にする動物と思われていたため、ペリカンは神の愛、またはミサの象徴となり、また
動物寓話では、自己犠牲の象徴となった。ウィキペディアより)
「いとしのペリカン 主イエズス」のイメージは日本では知られているでしょうか?
・教会の聖櫃におられる主イエズスさま、つまりご聖体訪問も、神さまの愛のしるしとしてだけ
ではなく、現存されるイエズスさまとのお付き合いを味わう場ともなりました。
わたしたちは、何かを「すること」に追われがちですが、心を養い成長させるには「神さまとの
親密さ」が欠けてはならないのです。
聞いた話ですが、スポーツや運動などの大切さが言われ、わたしたちは身体を動かすことを
行いますが、実は体を動かすことが身体のためになるのは、休憩の時だそうです。つまり休憩が
なければ、身体に疲れが積み重なるばかりで、死を招く危険も含まれています。
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイ 11・28)
「行く」ところがあるのは、なんと素晴らしいことでしょうか。「心の目」をくださるイエズスさまの
恵みを生かしていきたいと思います。
ご聖体拝領前のすすめのことば「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」を思い出しましょう。
そして、ヨハネの福音の書にあるように、ペトロの言葉を借りてわたしたちは次のように答えます。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、
わたしたちは信じ、また知っています。」 と。
(ヨハネ 6・68〜69)
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。
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