神さまの「息吹き」で 生かされて
―主任司祭メッセージ 5/9―



 イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている
”霊”について、言われたのである。

(ヨハネ 7・37b〜39a)

 この“霊”は、キリストの死からの勝利による「聖霊」のおくりものです。
 
このコロナの時は、神さまが与えて下さる「息吹き」という言葉を、もう少し深く理解するよい機会
ではないでしょうか。
 
父である神、それは「いのちの源(みなもと)」を表し、子である神さまは、そのいのちの「現れ」を示し
ます。「息吹き」は神のいのちの「働き」を表します。身体で考えると「息吹き」は身体の呼吸です。
 
実は、聖霊は今生きておられるキリストさまが、わたしたちをその体である「教会としてくださる」おく
りものであり、キリストの救いによる新しいいのちに、わたしたちを成長させてくださるものです。
 
以前このメッセージで、キリストさまとの七つの出会いによるいのち(秘跡)についてお話しましたね。
この七つの秘跡で、キリストさまとの出会いの恵み(主の息吹き)が、それぞれ独特な形で与えられて
います。

 今回、司教様が「堅信の秘跡」を行うためにいらっしゃいますので、これをテーマにしたいと思い
ます。
 
どうしてイエズスさまは、この秘跡をわたしたちにくださったのでしょう?
 
わたしたちを教会にするキリストによる「新しいいのち」は、時間と空間の中の歩みで、人の成長と
ともにいただく恵みです。この成長のためには、秘跡によるキリストさまとの「出会い」が必要です。
 
生まれてすぐの赤ちゃんは、身体の食べ物として、母乳(ミルク)から始め、成長に伴っていろいろ
固い食べ物を食べるようになりますね。それと同じように、こころのいのちを育てるために、子どもの
場合は、昔から成長の時間に合わせて、洗礼、堅信、聖体の秘跡を行うようになっています。
 
幼子イエズスさまについても、聖書に次のように書いてあります。

幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカ 2・40)

 また

イエズスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ 2・52)





 わたしたちが秘跡に与るたびに、イエズスさまは聖霊のおくりものをくださり、その死と復活に加えて
くださって、「新しいいのち」に導いてくださいます。そのいのちによって生きることは、わたしたちに喜び
と希望を与え、またその新しいいのちを証しするために、惜しみない愛、勇気、知恵をあたえてくれ
ます。実は新しいいのちを「証しすること」、これこそが「堅信の秘跡」の 独特の恵みです。
 堅信式の流れを追うと、まず「洗礼の約束」と「信仰宣言」があり、続いて秘跡の恵みを願うときに
欠けてはならない「按手」とそれに伴う祈りがあります。最後に、この秘跡の特徴である聖香油の
「塗油」の式があります。
 
「塗油」について、「カトリック教会のカテキズム」には次のようにあります。


塗油は、「キリスト者」という名称の意味をよく示しています。
それは「油注がれた者」という意味であり、
「神は、聖霊によってこのかたを油注がれた者となさいました」(使徒言行録 10・38)
と記されている、キリストご自身のみ名にその起源があるのです。(1289より)

 つまり、この「塗油」のしるしを通して、わたしたちはキリストさまと同じように「選ばれた者」であること
を表し、大祭司、預言者、王であるキリストと一つになっている「恵み」を意味しています。
 
こうして、わたしたちは皆「油注がれた者(つまりキリスト)」であって、ふさわしくキリスト信者といわれ
ます。
わたしたちは、キリストさまの死と復活の神秘によってその勝利に加えられ、新しいいのちにあず
かり、それを証しするために、毎日の生活に派遣されるのです。

 按手される司教様の祈りに合わせて、わたしたちも祈りたいと思います。

全能の神、主イエス・キリストの父よ、
あなたは水と聖霊によって、
この人々に新しい いのちを与え、
罪から解放してくださいます。
今、この人々の上に、助け主である聖霊を送り、
知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み
神を愛し、敬う心をお与えください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン
(堅信式の式次第より)

 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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