見えない神さまは「見えるしるし」のうちにおられます

―主任司祭メッセージ 5/30―



 ヨハネの福音書に次の節があります。

いまだかつて、神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである。
(ヨハネ 1・18)

 「人間」となられたことによってこそ、見えない神さまが見えるようになりましたが、身体の目では、
「人間の姿」しか見えませんでした。
 しかし、人間となられた神さまの姿を「しるし」として読み取る力があれば、見えない神さまは見える
ようになります。その力は「心の目」によるもので、つまり信仰です。こうして、同じヨハネの福音書に
次のようにあります。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
     わたしたちはその栄光を見た    
 と。
(ヨハネ 1・14a)  

  人間となられた神さま、つまり主イエズス・キリストと同じく、その体である教会もそうです。それから、
信じるわたしたちも「しるし」です。
 教皇聖レオ一世の言葉にすれば、「わたしたちの救い主の見える側面は、諸秘跡に移り
ました
」と言われる通りです。秘跡は、見えないイエズス様による救いに あずかるための「しるし」だから
です。
 つまり、イエズスさまは、教会の奉仕(ミニステリウム)のしるしを通して、その「救いの業」を世の
終わりのとき
まで続けておられます。

そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、
父である神に国を引き渡されます。
(Jコリント 15・24)

 今回、キリストさまによる救いの業が、教会を通してどのように実現されるかを もう少し学びたいと
思います。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられ」
(Jテモテ 2・4) 

ます、とパウロは言い、イエズスさまご自身も次のように言われました。

「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
(ヨハネ 12・24b

 また、

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」  と。

(ヨハネ 10・10b) 

 さらに復活されたイエズス様は弟子たちに現れて、言われました。

「あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい…。」
(ヨハネ 20・21b〜22)

 つまりこの神さまの御はからいの中で、「キリストのからだ」である教会は、その救いの「場」となっている
のです。教会憲章には次のようにあります。
 地上から上げられたキリストは、すべての人を自分のもとに引き寄せた
(ヨハネ12・32 ギリシャ文参照)
すなわち、死者の中から復活して(ローマ6・9参照)、いのちを与える自分の霊を弟子たちに注ぎ、
その霊によって自分のからだ、すなわち教会を救いの普遍的秘跡として定めた。
(教会憲章48)
 
さらに現代世界憲章には、

 復活の神秘に結ばれ、キリストの死の姿にあやかるキリスト信者は、希望に力づけられて復活に
向かって進むであろう。
 このことはキリスト信者だけでなく、心の中で恵みが目に見えない方法で働くすべての善意の人々
についても当てはまる。実際、キリストがすべての人のために死に渡され、また、人間の究極的召命が
実際には一つ、すなわち神に由来するものであるからこそ、われわれは、聖霊が神に知られている
方法で、復活の神秘にあずかる可能性をすべての人々に提供することを信じなければならない。
 キリスト教にかかわる啓示によって、信じる人々に明らかに示される人間の神秘は、このようなもの
で、かくも偉大である
(現代世界憲章22)  とあります。

 イエズスさまの救いの業について、次のようにあります。

…ナザレのイエスのことです。
神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。
イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け
悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、
      それは、神が御一緒だったからです    
と。
(使徒言行録 10・38)

 こうして教会は今も、キリストのしるし(秘跡)となって、キリストの救いの業を実現しつづけて
います。まず、典礼(エウカリスチアと秘跡)の祈りをささげることによって、また愛の証しを行うことに
よって、最後はその救いを宣言することによって、行い続けています。

 秘跡である教会のしるしを通して、今日の世界もキリストさまの救いの業とつながっており、またキリストさまが
「現実の現存」のうちに世の救い主となっておられます。
 イエズスさまが救いの実現のしるしとして「エウカリスチアのしるし(秘跡)」を教会に委ねられました。
そのため、教会堂も聖別されたところであり、その「しるし」となっています。この場所は、教会であるわたし
たちがいつも いのちの泉から水を汲むところであり、また、新しいいのちである「キリストのしるし」と
なっていくところでもあるのです、この世が終わるまで。  

 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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