「わたしたちを 神に仕える祭司としてくださった」

―主任司祭メッセージ 6/6―



 ヨハネの黙示録には次のように書いてあります。

わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、
栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
(ヨハネ黙示録1・5b〜6)

 聖霊降臨の祭日を祝ったこの時、教会は1年の最も聖なる期間を終わり、次々に救いの神秘に
よる啓示をますます明らかにします。
 「三位一体の主日」は「三位一体」の神さまを思い出し、「キリストの聖体」の主日は、エウカリス
チアの秘跡の中でわたしたちとともにおられるキリスト、また「イエスのみ心」の祭日は、そのみ心の
神秘などを明らかにしてくださいます。
 四旬節の期間は、主イエズス・キリストの受難と死、復活の神秘を通して実現された「救い」を
記念します。アダムの罪により創造主でおられる神様のすばらしい世界に死が入り、新しいアダム
キリストによってその死が滅ぼされ、「新しい創造」が始まったことを「復活祭」で記念しお祝いしま
した。
 その時から始まったご復活節は、教会のお誕生日である「聖霊降臨」で救いの業が完成に至り、
「キリストの体である教会の時」が始まりました。
 これから教会の典礼は、まずイエズスさまを通してわたしたちが知った神様の神秘、すなわち
“神は愛“であり、“愛の交わり”であることを「三位一体」の祭日にお祝いし、続いてキリストの
御血と御体の祭日(「キリストの聖体」)、また「イエスのみ心」の祭日を通して、神さまの愛は
「あがないの愛」であることを学びます。
 これは「十字架の神秘」に光をあて、またイエズスさまを信じてイエズスさまに従うわたしたちが
同じ神秘に加えられてキリストの「新しいいのち」にあずかるものとなっていることを、わたしたちに
教えてくれます。つまり天(神)と地(被造物)を結び、神さまのいのちである“愛の交わり”にわたし
たちをも入れてくださる「祭司でおられるキリスト」の祭司職にあずかることを教えています。またさらに、
これはミサの尊さについて、あらためて語ってくれるものです。
 実は、洗礼と堅信の秘跡の「聖香油のしるし」によってこそ、わたしたちはキリストとなり、その
祭司職に加えられたことになっています。
 
祭司、それはささげものを献げることによって、この世を神のいのちの交わりに入れる橋渡し
(メディアチオ)をする役割を果たします。

 ヨハネの福音の書にあるエピソードは、大変参考になると思いますので、紹介させていただき
ます。

イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリボに、
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた…
弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。
けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。
男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、
座っている人々に分け与えられた。また魚も同じようにして、
欲しい分だけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、
「少しでも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」
と言われた。集めると、人々が五つの大麦のパンを食べて、
なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
(ヨハネ6・5、8〜13)

 この少年のお弁当の尊さをみてごらん。
 ミサの時に、イエズスさまの御手にゆだねるわたしたちのささげものの“物足りなさ”がここに現れて
います。けれどもイエズスさまの献げものに加えられると、わたしたちもイエズスさまの祭司職に加え
られ、ささやかで取るに足りないわたしたちの毎日のすべては、永遠のいのちを養う糧となるのです。

 たびたびミサの式次第を参考にさせていただきますが、奉納の時、司祭がパンとぶどう酒をささげて
祈ることばを思い出しましょう。

神よ、あなたは万物の作り主、ここに供えるパンはあなたからいただおいたもの、
   大地の恵み、労働の実り、…   と。

 この言葉には、人間がささげものにするものすべてが含まれています。まず、神の恵み、それは
自然からいただいているすべての恵みです。次に労働のみのり、これは人間の労働によるもの
です。わたしたちの喜び、悲しみ、苦しみ、汗、限界、失敗など人間の営みのすべてが含まれ
ます。それから、司式者が次のようにわたしたちの信仰を宣言します。 「わたしたちのいのちの
糧となるものです
」 と。
 つまり、聖変化の時にイエズスさまが言われる言葉によって人間のささげる業は、「永遠の
いのちの糧」となるのです。  
 一人の祭司でおられるキリストは、ご自分のいのちをささげものにすることによって、わたしたちの
いのちのささげものも、永遠に「神様の愛(いのち)の交わり」に入れてくださいます。
 祭司キリストの心をわたしたちのうちに養い育ててくださるお方は「聖霊」ですが、この恵みは、
愛でおられる神様の皆への平等なおくりものです。こうして、争って先になろうということもなく、
いただいたいのちを皆がそのままささげものにすれば、そのいのちは「永遠のいのち」となり、さらに
キリストの祭司職に加えられて「罪のゆるし」となり、新しい天と地を結ぶ「永遠の契約のささげ
もの」となるのです。そのためにイエズスさまは言われます。

これをわたしの記念としておこないなさい」   と。

 “いのち”をいただいているわたしたちですが、それは、このいのちを“ささげもの”にするためで
あって、それによってこそ、わたしたちは愛でおられる「神の子どものいのち」に完全に生まれるの
です。




 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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