わたしたちは「神の神殿」「聖霊の住まい」

―主任司祭メッセージ 6/20―

(「師」として御ことばを教えるキリスト)


 わたしにとって日本語はまだまだ難しいですが、日本語学校に通っていた頃から、分かりにくい
ところが一つありました。それは、日本語の動詞に現在形と過去形があるのに、どうしてはっきりと
した未来形がないのか ということです。日本文化には死後のことについて確信がないからでは
ないでしょうか。
 教会の信仰は過去、現在、未来が全部はっきりしています。わたしたちは「神さまの今」
(永遠)のうちに生きているからです。神さまは永遠だからです。
 未来をテーマにする黙示録の書には、「未来」についての確信が次の言葉で表現されています。

見よ、わたしはすぐに来る。
…主イエスよ、来てください。
(ヨハネの黙示録 22・12a、20b)

 ミサの聖変化の後のお言葉を思い出しましょう。「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来ら
れるまで
」 と。

 

 信仰の感覚をまだ十分に持っていないコリントの教会に、使徒パウロは次の言葉を述べられます。

あなたがたは、自分が神の神殿であり、
神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
(Jコリント 3・16)

 エフェソの手紙でパウロはさらに、次のように説明してくださいます。

したがって、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、神の家族であり、
使徒や預言者という土台の上に建てられています。
そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、
主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも ともに建てられ、
霊の働きによって神の住まいとなるのです。
(エフェソ 2・19〜22)

 「神の神殿」「聖霊の住まい」…この理解を可能にしてくれるものは「信仰」です。つまり
イエズスさまを信じることです。信仰は、いのちと同じように 心を開いて迎え入れる「おくりもの」
であり恵み(グラチア)です。
 造られた世界の中で、「信じることによって生きる」ことが委ねられているのは、人間だけです。
命あるものの中で人間にとってだけ、いのちはその自由に委ねられています。そのために、人間
だけが本当の幸せを知ることができるのです。人間は「永遠の幸せ」のためにいのちの恵みを
いただくものです。

 実は、神が造られた世界も神さまの神殿になるためには、人間が信仰に心をひらく必要が
あります。
 パパフランシスコがこれについて書かれた回勅があります。“ラウダート・シ”と“兄弟の皆さん”
(Fratelli Tutti)を思い出してみましょう。
 この教会の信仰を短くまとめて言えば、最初の人間が罪のために不可能にしたことを、新しい
人間アダムであるキリストが実現され、その「あがないの愛」のおかげでわたしたちもそのいのちに
あずかることができ、神さまを「父よ」と呼ぶことができるようなりました。

あなたがたが子であることは、
神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、
わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
(ガラテヤ 4・6)

 これはわたしたちのうちにイエズスさまの約束が実現されているからです。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
(ヨハネ 14・23b)

 信仰は「学ぶ」ものです。わたしたちが言葉を学ぶのと同じようです。こころの目をくれる信仰に
とって、からだを通して体験するものは全部“しるし”(ことば)となり、見えない神さまの愛のしるしと
なります。永遠にいたるまでの愛のおくりものの“しるし”となっています。こうして信仰のひかりのもと
で「生きる」ことを学ぶのです。
 イエズスさまのお言葉にすれば、「わたしから学びなさい」、また「わたしは道、真理、いのちで
ある
」とあります。わたしたちは、イエズスさまの教え子で、マリアさまを模範にして歩みたいと思います。

…マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
(ルカ 2・19b)

 「神の神殿」「聖霊の住まい」であるわたしたち一人ひとりは、なんと美しいものでしょう。また、
なんと幸せなものでしょう。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
(ルカ 1・45)

 信仰の恵みによって成長し、またその「証し」となりたい。

 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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