わたしたちは「呼ばれた者」(その1)

―主任司祭メッセージ 6/27―



 見出しの「わたしたちは呼ばれた者」の言葉は、パウロのエフェソへの手紙に、次のように書いて
あります。

…あなたがたにすすめます。神から招かれた(呼ばれた)のですから、
その招き(呼びかけ)にふさわしく歩み、一切高ぶることなく、
柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛を持って互いに忍耐し、
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、
一つの希望にあずかるようにと招かれ(呼ばれ)ているのと同じです。
(エフェソ 4・1〜4)

 教会は、神さまが「呼ばれて」集めてくださる「新しい民」です。教会は、同じ土地に住んでいるから
ではなく、また血筋によって成り立っているものでもなく、また人々が決めることによって民になるものでも
ありません。ヘブライ人への手紙に次のようにあります。

 だから天の召し(呼びかけ)にあずかっている聖なる兄弟たち(ヘブライ 3・1a) と。

 天(神さま)から呼ばれて民となっている新しい民であるからこそ、異なる文化の世界中の人々を
迎え入れることができます。これはカトリック(普遍的)の意味でもあります。今回のメッセージはこの
テーマをもう少し深めたいと思います。

 わたしたちにとって神は「語って」くださるお方です。その「ことば」は、イエズスさまです。(参照:ヨハネ1・1)
 聖書のはじめに次のように書いてあります。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記 1・3)

 つまり、神さまの「ことば」によって、すべてのものが「存在」に呼ばれたのです。けれども人間をお造りに
なったときには、次のように書かれています。

神は言われた。「我々にかたどり我々に似せて、人を造ろう。
そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの、すべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。男と女に創造された。
(創世記 1・26a〜27)

 こうして人間だけが神の「ことば」に応えて生きる「存在」に 呼ばれています。人間は創造された
すべてのものを司るために「呼びかけ」(ミッション)を受けるのです。最後に、

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
見よ、それは極めてよかった。
       
(創世記 1・31)   とあります。

 それから「罪」があった。人間は神さまのことばに不従順でした。ですから、神さまはよい羊飼いと
同じように、迷った一匹をいつも捜して「呼び」かけ続けてくださいます。

 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」(創世記 3・9)

 

 神の民“イスラエル”の始まりにもアブラハムへの呼びかけがあります。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように
あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。
(創世記 12・1〜4a)

 アブラハムは神さまのおことばを信じて旅立ちました。イスラエルにとって神さまの声を見分け「呼び
かけ」に応えて生きることが最も大事であったことは、次のエピソードが教えてくれます。

    〔その日、少年〕サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。
   サムエルは、「ここにいます」と答えて、〔祭司〕エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参り
   ました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエ
   ルは戻って寝た。
    主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参り
   ました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエ
   ルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを
   呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、
   少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられ
   たら、『主よ、お話ください。僕は聞いております』と言いなさい。」
    サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを
   呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話ください。僕は聞いております。」
    サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることは
   なかった。
(サムエル上 3・3b〜10、18)

 よい羊飼いについてのイエズスさまのおことばを思い出したい。

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
羊はその声を知っているので、ついて行く。
しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。
ほかの者たちの声を知らないからである。」
(ヨハネ 10・3〜5)

 呼びかけてくださるイエズスさまをテーマにして、次のメッセージに続けます。
 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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