「タリタ、クム」
  
わたしたちは「呼ばれた者」(その2)
    ―主任司祭メッセージ 7/4―





 イエズスさまは神の子キリストで、わたしたちを「死からいのちへ」呼び起こしてくださる「来るべき
お方」(メシア)です。
 創造主でおられる神さまが、「おことば」によってこの世をお造りになったと同じように、人間となら
れたイエズスさまも「おことば」によって人を救い、「いのち」に呼び起こされます。

 今回のメッセージのタイトルにある「タリタ、クム」は、年間第13主日の福音の書にあるエピソード
の中のことばです。
 病気になって死にかかっている少女の家に行く途中、イエズスさまのもとにいた娘のお父さんに、
使いの者が来て言います。

「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう。」(マルコ 5・35b)

 けれどもイエズスは、その父に言われました。

        「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ 5・36b)     と。

 そののち、死んだ少女の家に入られて、

子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。
これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
少女はすぐに起き上がって、歩き出した。
もう十二歳になっていたからである

(マルコ 5・41b〜42a)

 教会はまさに、イエズスさまが「死からいのち」へ呼び起こされた「新しい民」で成り立っています。
わたしたちは「呼ばれた者」の集い(エクレジア=church)で、イエズスさまがご自分のもとに
呼び集められる民です。

 イエズスさまがお呼びになった人々は先ず弟子たちでしたが、呼ばれた人々はその場で何もかも
捨てて従っていきます。この「こころ」の態度の大切さを教えてくれるエピソードが、福音の書の
他のところにあります。

        

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」…
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。
「あなたに欠けているものが一つある。
行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に富を積むことになる。
それから、わたしに従いなさい。」
(マルコ 10・17、21)

 イエズスさまに従うとは、イエズスさまが先立って歩まれた「愛の道」に従うことですね。イエズス
さまは創造された神さまの権威をもって、その死に至るまでの愛によってこの世を救われました。
この世にいのちを「買い戻された」業であり、これを「あがないの愛」と言います。
 教会もその愛にしたがって歩むように呼ばれています。この「こころ」の態度は、教会の祈る
「こころ」でもあります。ミサの集会祈願は必ず次のように締めくくられます。

聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、
  支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって、アーメン  
と。

 教会は、死にまみれたそのささげものの上にも、奉納の祈りを通して永遠のいのちの糧となる
よう願います。例えをあげると、

     父である神よ あなたがお造りになったもののうちから、
ここにささげる教会の供えものを受け入れ、
あなたの力によって、救いをもたらす秘跡としてください。
    わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン  


 つまり死に向かっていくこの世は、「ささげもの」となることによって死から救われ、天のいのちで
満たされ、「新しい創造」を宣言する「ことば」となるのです。
 イエズスさまの「あがないの愛」は、死にゆくものを「いのち」に返され、それからわたしたちを通
して、世の終わりまで「新しい創造」の業を行ってくださいます。これこそ教会の礼拝です。

 ミサで宣言される聖書の箇所に、いつも「いのち」に呼びかけてくださる神さまのお言葉、また
イエズスさまのお言葉がありますね。それからエウカリスチア(感謝の祭儀)を行い、わたしたちは
恵みを受けてイエズスさまの「ことば」に従っていく決心を新たにします。
 最後にわたしたちは、それぞれ置かれたところで神様がくださる「いのち」の業を行うために派遣
されます。子どもにしても大人にしても、病気の人も元気な人も神さまと一つになって、どんな人も
この世の「新しい創造」の業に加えられていることは、何と素晴らしいことでしょう!オリンピックで
メダルのために一生懸命力を尽くすこととは、比べられないほどのものでしょう。

 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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