主は…母の腹にあるわたしの名を呼ばれ(る)
  
    ―主任司祭メッセージ 7/11―




 小さき花のテレジアの日記にあるエピソードです。
 
8歳位の時、彼女はお母さんと一緒に夏の夜空を見て、「T」の形をしたオリオン座を見つけ大
喜びし、母に抱きついて言いました。「私の名が天に書いてある!」と。(星座が頭文字「T」と
同じ形だったからです。)
 
実はテレジアの名だけではなくて、わたしたちみんなの「名」が「天」に書かれています。イザヤの
書にあることばを引用させていただきます。

主は母の胎にある私を呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。(イザヤ 49・1b)

 神さまがその僕(メシア=キリスト)について、イザヤ預言者を通して言われるこの言葉は、実は
神さまがわたしたち一人ひとりについても語られる言葉です。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ 43・1b)

見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。(イザヤ 49・16a)

 わたしたち一人ひとりはユニークなかたちで愛されて、「いのち」に呼ばれ、この世に来ます。
それは呼ばれたユニークな名前を表すためです。つまり、わたしたち一人ひとりはもともとユニーク
な呼びかけを持っている ということです。神さまの愛に“わたし”としてふさわしく(パーソナルな
かたちで)応えるものです。ここには、一人ひとりの尊厳の源(もと)があります。
 
こうして人間は誰でも 母の胎内から神さまの声を“聞き分け”、神さまの愛であるその声に
“応え”、それぞれ独特な形でその「いのち」によって“生き”、その「いのち」を“表す”ように呼ば
れています。
 
このわたしたち一人ひとりを「いのち」に呼んでくださる神さまの「こころ」を、イエズスさまはまず
弟子たちに教えられ、わたしたちにもまた「主の祈り」を通して教えられます。

…こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、…』 と。(マタイ 6・9b)(参照箇所 〜13)

 イエズスさまは、見えない神さまの存在を表されるお方であって、その弟子たちがますます
その神秘に近づくようにお呼びになります。
 
例をあげさせていただきましょう。最初の弟子たちとの対話が次にあります。

イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。
彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。
そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。
そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
(ヨハネ 1・38〜39)

 続いて、ラザロをよみがえらせるためにイエズスさまがその家を訪れられた時のマルタの言葉
です。

マルタは…家に帰って姉妹のマリアを呼び、
    
 「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と耳打ちした。(ヨハネ 11・28)

 このマルタの言葉は、イエズスさまがわたしたち一人ひとりに常にお伝えになろうする言葉
です。このイエズスさまの「のぞみ」は、黙示録に次のように表現されています。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
           彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録 3・20)

 最後に、復活されたイエズスさまが、マグダラのマリアに現れられたときの箇所です。

こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。
「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、
    
「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネ 20・14〜16)

 つまり、マグダラのマリアがイエズスさまだと気が付くのは、その名を「呼ばれた」時でした。

 イエズスさまは見えない神さまの存在を表す姿をもって、今も「秘跡」のかたちで、わたしたちと
共におられます。これは、ことにエウカリスチア(ご聖体)のうちに、その現実の現存の姿でおられ
ます。また、秘跡の神秘によって、わたしたちをその教会とし、その「体」にしてくださっています。
 
自分の名前の深い真実を発見することは、わたしたちひとり一人の人生の冒険に満ちた
目的で、またわたしたちの永遠に続く喜びの泉となっています。啓示の書(黙示録)に次の
ように書いてあります。

「…勝利を得るものには隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。
この小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」
(ヨハネ黙示録 2・17b)

 いつかイエズスさまが、その「名」を呼びかけて言われるでしょう。

『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、
       
多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(マタイ 25・21b)  と。

 

 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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