(ミラー)と「み顔」

      ―主任司祭メッセージ 7/25―



 『目はこころの鏡』と言われます。
 今のデジタルの時代の中の進化したテクノロジーにおいても、鏡のしくみは大切にされています。
また、この日本でも昔から鏡は大切にされてきました。

 一方、詩編にはこう書かれています。       

主よ、呼び求めるわたしの声を聞き
憐れんで、わたしに答えてください。
心よ、主はお前に言われる
「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
(詩編27・7〜8)

 神の「み顔」を見る(求める)ことは、人間にとってこころの深い望みです。またさらに そのみ顔を
肉眼で見るのではなく、こころの目で見ると書いてあります。
 実は、神は見えないが、福音書には次のように書いてあります。

いまだかつて、神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである。
(ヨハネ1・18)

 つまり見えない神さまのお顔は 見えるイエズス様のお顔ですね。

 水仙の花にまつわるギリシャ神話をご存じですか?
 日本にもある水仙は、学名Narcissus(ナルシサス)と言います。これはギリシャ神話によれば、
ナルキッソスという名前の少年から取られた言葉で、この美少年が池に写った自分の姿だけしか
愛せなくなる話にもとづいています。花言葉に「自己愛」や「うぬぼれ」といったものが付いている
のも、おもしろいですね。

 この世に生まれる子どもの前に神さまが置かれたのは「鏡」ではなく、「母 (相手)」でした。
それは赤ちゃんがその「お母さんの目の中」に“愛されている”自分の姿を見るためです。最初に
聖書にあるように、神さまは人間をご自分の「似姿(かたどり)」として造られたのです。
(参照 創世記 1・26〜
 でも、興味深いことも詩編には書かれています。

父母はわたしを見捨てようとも
主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。
(詩編27・10)

 つまり、見えない神さまの“本当の姿”を人間はいつも求めていることが教えられ、これは
人間の根本的な望みであり、祈りなのです。そして神さまの本当の姿はキリストです。
 鏡の物足りなさはどこにあるのかというと、鏡にはわたしたちの姿しか写らないからです。また、
わたしたちが夢見てつくろうとする「自分の姿」しか写りません。
 これと違って、お母さんの目の中に自分を「見る」ことは、鏡のように反射する自分を見るの
ではなく、自分が“愛されている”「相手」に目覚めさせてくれます。生きることは、反射する
自分の世界に生きるのではなく、自分の殻から出ることによって「本当の自分」を見出すのです。

使徒パウロのことばを思い出しましょう。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、
鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。
これは主の霊の働きによることです。
(Kコリント3・18)

 こうしてわたしたちはいつも目の前にキリストの「み顔」を持っています。「キリストさまのお姿」
だけがわたしたちを神さまが望まれる姿にすることができるのです。
 日本語で「回心」といいますが、もともとの意味は「神さまの顔の方に向く」(Conversio コン
ヴェルシオ)、あるいはその結果を表す「こころの向きを変える」(Metanoiaメタノイア)という意味
です。

 ようやくオリンピックが開幕し、選手たちは身体の限界に挑戦して、メダルを得るために競って
いますが、使徒パウロが言われる通り、キリストを信じるわたしたちは神さまがくださるメダルのた
めに、キリストさまのお顔を見ながら走っていきます。

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
(ヘブライ12・2a)

 暑い夏の季節、皆様も体を大切にして、キリストのいのちのうちに歩みたい、感謝を込めて。

 ではまた来週!

   


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

主任司祭メッセージのバックナンバーは更新記録へ