「キリストのアスリート」 パウロ
  ―東京2020オリンピックとキリストを信じるわたしたち―

      ―主任司祭メッセージ 8/1―


 イエズスさまはインマヌエル、その名は、「神は我々と共におられる」という意味である
(マタイ1・23b)、とあります。
 神は、この世にお生まれになり、わたしたちのために死に、復活し、天にお上りになりましたが、
同時にお約束通りわたしたちと共にいつもおられます
(マタイ28・20b)。わたしたちをご自分の教会と
され、ご自分の体にしてくださるのです。

 この世に旅するわたしたちと共におられ、人々の喜びを共に喜び、人々の悲しみを共に悲しみ、
皆を「まことのいのち」に導いてくださるのがイエズスさまです。
 こういうわけで、イエズスさまはわたしたちの東京オリンピックをも心にかけてくださり、いのちに
導くように人のこころの中に聖霊を送ってくださるでしょう。
 遊ぶことやスポーツは、人の喜びであり、人の成長に欠けてはならないことで、幼いイエズスさま
もきっと子どもたちの中で遊ばれたことでしょう。福音の書にもイエズスさまが子どもたちの遊びを
たとえにされたところもあります
(マタイ11・16〜19)
 一方、遊びよりすぐれた人間の最も大きな目的へと導くために、イエズスさまは ご自分に“学び”
(マタイ11・27〜30)、ご自分に“従う”ようにと教えてくださいます。
 こうして使徒パウロも、スポーツからたとえをとって、自分がイエズスさまに従っていくことについて、
いろいろな箇所で述べられます。

あなたがたは知らないのですか。
競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。
あなたがたも賞を得るように走りなさい。
競技をする人は皆、すべてに節制します。
彼らは朽ちる冠
(かんむり)を得るためにそうするのですが、
わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、
空を打つような拳闘もしません。
むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。
それは、他の人々に宣教しておきながら、
自分の方が失格者になってしまわないためです。
(Jコリント9・24〜27)

 ここでパウロは、スタジアムで走る人々の懸命さと自分が福音を述べ伝える態度とを比べて
います。また、この努力に節制や苦しみなどが伴うことが説明されています。しかしスタジアムで
競争する人々と違って、パウロが求めている冠は朽ちるものではなく、「朽ちない冠」ですね。
 ここには、大きな教えが含まれています。キリスト信者は、身体と精神を極めることを目指し
ますが、それはスタジアムの競争に勝つためではなく、「新しい人キリスト」にあやかる
(感化されて
同様の良い状態になること/国語辞典)
ためです。ここに「朽ちない冠」の意味があります。
 たしかに人間は、身体によってだけではなく、霊によって生きるものであるからです。
 この箇所
(Jコリント9・26〜27)に、パウロの競争の態度について細かく書いてありますが、この
テーマについて、パウロはフィリピへの教会の手紙にも豊かに書いておられます
(参照 フィリピ3・12〜14)
 ここで、テモテへの第二の手紙にある「キリストのアスリート」としてのパウロのこころの態度について、
まとめとして思い出させていただきます。

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られる
キリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、
おごそかに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。
忍耐強く、十分に教えるのです。誰も健全な教えを聞こうとしない時がきます。
そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを
寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、
福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
(Kテモテ 4・1〜5)

 こういうふうに自分の弟子テモテにすすめ 励ました後に、パウロは自分について次のように
書きます。

私自身は、既にいけにえとして献げられています。
世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、
決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、
かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。
しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、
だれにでも授けてくださいます。
(Kテモテ 4・6〜8)

 「いのち」は身体のいのちだけではなく、その身体を生かす“霊のいのち”であることをわたしたちは
信じます。人は身体と霊によって成り立っています。イエズスさまのおことばを思い出します。

『人はパンだけで生きるものではない。
          神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
(マタイ 4・4)   と

 こういうわけで、東京オリンピックの出来事も単なる過ぎていく競争の場ではなく、「神のことば」
として受け入れるならば、この「ことば」によって、皆が望んでいる実り―わたしたちが皆兄弟である
ことを認め合うこと、明日への希望、霊的な喜び―をもたらすでしょう。



 
 ではまた来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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