イエズスさまの「家」 とは?   

―主任司祭メッセージ 8/8―


 イエズスさまは「人の家」の中でお生まれになりませんでした。ベツレヘムの「馬小屋」でお生
まれになりました。
 日本でも今はみな病院で出産しますが、昔は自分の家で出産するのが普通だったでしょう。
 けれどもイエズスさまはベツレヘムでお生まれになりましたね。ベツレヘムはダビデ王の町で、ダビデ
家の血筋であったヨセフさまとマリアさまも住民登録のためにベツレヘムへ帰らなければなりませんで
した。“ベツレヘム”と云う名は、「パンの家」という意味です。
 実は、ダビデ王がその栄華の盛りに、神さまのために「家(神殿)」を造ろうとしていたとき、神は
預言者ナタンを通してダビデに言われました。

…主はこう言われる。あなたがわたしのために
住むべき家を建てようというのか。…
主があなたのために家を興す。

(サムエル下 7・5b、11b)

 つまり家をくださるのは神さまですね。こうして主の言葉は次のように続きます。

あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、
あなたの身から出る子孫に後を継がせ、
その王国をゆるぎないものとする。
この者がわたしの名のために家を建て、
わたしは彼の王国の王座をとこしえに固く据える。
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。
(サムエル下 7・12〜14a)

 そのダビデの子孫がイエズスさまで、その「家」はイエズスさまが造られる「教会」です。イエズスさま
がわたしたちを「神の家」にしてくださいます。

 生まれる子どもは誰でも家(家族)を必要としますから、結婚する二人は家族を育てるために
家を大事に考えます。それは、家が生まれる子にとって欠けてはならない「いのちの泉」となるから
です。
 家は「親密さの場」で、そこでは愛が育てられ、そこに生まれた子は、「子」であることを学びます。
 イエズスさまも家を必要としました。そのお父さんヨゼフとお母さんのマリアの愛を通して、神の
子どもの愛を学ぶためでした。昔から、聖堂に必ずマリアさまとヨゼフさまの御像が置かれている
のもそのためでしょう。
 こうしてベツレヘムでお生まれになったのち、

親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、
自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
(ルカ2・39〜40)

 でもナザレでの生活の間に大事な出来事がありました。12歳(一人前の大人と認められる歳で、
ユダヤの成人式)になられたイエズスさまが、家族と一緒に祭りのためにエルサレムに上られたとき、
神の家である神殿に残られます。それは、先ず天の御父のみはからいを果たすことが最も大切な
ことだということを示すためでした。

祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスは
エルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
(ルカ 2・43)

 その後、三日間にわたってイエズスさまを必死に探していた両親に、イエズスさまは次のように
お応えになりました。

…、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。
わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
知らなかったのですか。」
(ルカ 2・49〜50)

 このあとイエズスさまはナザレに戻られ、公生活に入られるまでは両親に仕えて“ヨセフの子”と
して知られることになっています。

 わたしたちにも神さまはナザレの家のような「家」をくださいます。この家から「父よ」と呼びかける
ことを学ぶためです。この家は「神の家」で、「教会」とも呼ばれます。この家には、この世が終わる
まで、現実の現存としてイエズスさまがお宿りになっています。愛のささげものを常に御父に献げる
ためです。
 この場所(教会)がわたしたちの成長に関わる理由は、永遠のいのちのパンであるキリストに
よって、わたしたちがここ(教会)で養われるためです。この場所こそベツレヘムであり、「まことの
パンの家」なのです。聖堂に欠けてはならない存在は、ご聖体としておられるイエズスさまの「生き
た現存」の存在です。

 教会はイエズスさまの家で、わたしたちの家でもあります。ここはイエズスさまがわたしたちをも
「神の家」にしてくださる場所です。

 ではまた来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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