病気の時に見舞い…(マタイ 25・36)
―主任司祭メッセージ 8/22―
イエズスさまは、天からの「訪問者」です。イエズスは言われました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…」
(マルコ2・17b)
それからイエズスさまはわたしたちにも同じ使命をお与えになりました。マタイの福音書に次の
ように書いてあります。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、
天地創造の時からお前たちのために
用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、
病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
(マタイ25・34〜36)
今、長引くコロナ禍の中で、このお言葉を思い出すことは心強いことだと思います。実は、今日
ご紹介したい箇所がもう一つあります。それは百人隊長のエピソードです。
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が
近づいてきて懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、
ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、
「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
(マタイ8・5〜7)
百人隊長の返事は、わたしたちを驚かせるものでした。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような
者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。
そうすれば、わたしの僕はいやされます。」
(マタイ8・8)
この百人隊長の言葉は、ご聖体拝領の前にわたしたちが唱えるべき言葉です。他の国では
この言葉が今も唱えられています。今のコロナ禍ではミサが中止されており、イエズスさまご自身が
ご聖体のうちにわたしたちを訪れてくださることができません。本当だったら、わたしたちが病気の時
(今)こそ、神さまの訪問者としてイエズスさまが訪れてくださるはずなのに。
実は教会は、わたしたちの中にいつもおられるイエズスさまを、「現実の現存」の秘跡を通して
喜び祝うことができなくても、この事態の中でもイエズスさまはわたしたちを訪れてくださることを、百人
隊長の信仰が教えてくれます。
…「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」…
(マタイ8・13b)
わたしが思うことですが、「試み」がおとずれるときに、ネガティブな指示だけを頼りにして乗り越え
ようとするのはふさわしくない。百人隊長の信仰から学び、天から訪問してくださる癒し主に、毎日
こころを開くことを学ばねばなりません。その恵みが、わたしたちのこころを癒し、わたしたちにこころの
平和をもたらしてくださいます。
…「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20b) と、
イエズスさまは言ってくださるからです。
この時こそ恵みのときです。例えば、このときは、人の尊さに目覚めたり、こころの中で互いに
親密さを深めたりしていつも新しい道を見出していくときなのです。だから自分の殻に閉じこもる
のではなく、むしろ信仰の恵みの力によって、こころを開くときです。
この道を見出すことが皆さんに任せられています。ここで私がお勧めすることが二つあります。
一つは、この時こそ、わたしたちが「教会であること」の意味を深める「恵みのとき」だということです。
日曜日に祭壇を囲んでイエズスさまのもとでわたしたちの一致を祝うだけでなく、「まことの家族」と
して“いつも教会であること”をわたしたちが学ぶ機会です。兄弟のことを心にかけて、ことにその
兄弟が病にある時に…。
もう一つは、兄弟に対してだけではなく、イエズスさまとの関係もパーソナル(個人的)なものに
して深めるときでもあります。このときこそ、わたしたちはイエズスさまとだけ「ともに過ごす」恵みの
時間をつくることができるからです。
わたしたちの祈りは、次のようでありたいと思います。
わたしたちの心を癒すために天から来られる聖なる訪問者がわたしたちのこころに百人隊長の
信仰を深めてくださることによって、わたしたちの毎日を明るく希望に満ちたものにしてくださいます
ように。
ではまた来週!
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。
|