信仰は「喜び」のおくりもの

  ―主任司祭メッセージ 8/29―


 いのちと同じように信仰は恵み、信仰は“おくりもの”です。
 信仰は、身体の目で見えない世界を見るための「新しい目」を、わたしたちにくれます。たと
えば、イエズスさまが言われたことを思い出しましょう。

…『はっきり言っておく。わたしの兄弟である
この最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。』
(マタイ25・40)

とありますね。信仰の目は、このもっとも小さな者の中にイエズスさまを見ることを可能にしてくれ
ます。その目でわたしたちが毎日を見ることができたら、どんな世界になるでしょう? じつは、聖書は
この感覚をもって書かれています。詩編は次のように語っています。

天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても
その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。
(詩編19・2〜5)

 つまり信仰によると、存在しているものすべて わたしたちのいのちと関わるすべてが、神さまの
「愛を語る言葉」となり、この言葉を読み取ることができたら、もう孤独はありません。さらに、
苦しみや試練、死に出会っても躓かないために、イエズスさまは十字架を「愛を語る言葉」として
くださいました。これだけ信仰のおくりものは素晴らしいものです。

 昔からわたしたちは朝晩の祈り、あるいは食前・食後の祈りなどを教えられてきました。それは
義務や習慣としてではなく、わたしたちの中に「信仰の感覚」をいつも新たに呼び起こし、“どん
なにわたしたちが愛されているか”ということに「目覚めさせる」ためですね。それなのに、今、わたし
たちはいつも“忙しい”“時間がない”。
 つまり信仰の感覚を生かし育てることを怠り、ますます孤独の中に生きているのではありませんか?
 信仰をもって生きる幸せをもう一度学びたい。また活かしたい。「信仰の感覚」をもって生きる、
それは神さまの感覚をもって生きることですね。
 今、わたしが直面するこの現実を、イエズスさまはどういうふうに見ておられるでしょう。「信仰の
感覚」でこれに向き合えば、これこそ神さまの愛の言葉であることがわかります。そうすれば、きっと
世界が変わって見えてきます。

 こうして自分の毎日を究明して、それを信仰がくれる光で照らしてみたい。また神さまの恵みを
願って、自分の毎日に向き合っていきたい。それからこうして幸せになりたい。

 聖書をおかりして、盲人のバルティマイの願いを自分の祈りにしたいと思います。
…「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人は、すぐに見えるようになり、
なお道を進まれるイエスに従った。
(マルコ10・51b〜52)

 「先生、目が見えるようになりたいのです」、これこそいつも私たちの祈りにするべきですね。

 じつは信仰の目が、いのちのもっとも大切なことを教えてくれます。それはイエズスさまの言葉に
あります。

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのため、また福音のためにいのちを失う者は、それを救うのである。
(マルコ8・34〜35)

 一日が過ぎてしまうともう戻らない ことをわたしたちはよく知っていますが、信仰の感覚で
みると、わたしたちの毎日は、“感謝とともにささげる”ことによって永遠のいのちにつながり、
神さまの前にいつまでも残るものとなります。それがわたしたちの永遠に続く喜びです。





 ではまた来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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