目の前でパラリンピックが行われたところですが、これを通してわたしたち皆が五体満足でも
なく、身体そのものも危険にさらされていることを実感しました。病気の訪れもこの「身体」の
根本的な弱さについて教えてくれます。実はこの世に生まれるわたしたちは、生まれた時から
死に向かう旅路を歩んでいます。
けれどもキリストを信じるわたしたちにとって、イエズスさまの復活の輝きのおかげで、病も死も
「真のいのち」とつながっていることを信仰が教えてくれます。
こうして生涯の旅路の間どんな時でも、わたしたちは、先だって歩んでくださる 死んで復活
されたイエズスさまを知ることによって「癒し」も知り、また味わうことができます。
福音の書には、人を癒してくださるイエズスさまのエピソードがたくさんあり、ほとんど毎回この
イエズスさまのお言葉があります。
実は、わたしたちが癒される経験をするのは、癒してくださるイエズスさまに心を開くときです。
わたしたちの本当の病は、心の病です。また身体の病は、それを思い出させてくれます。信仰
によって心が癒されるとき、身体の病も怖いものではなくなります。
わたしが感じることですが、小さな子どもがいろいろな病気を体験することは、そばにいてくれる
母のぬくもりや優しさを感じることによって、この感覚(安心感)を学ぶためではないでしょうか?
きっと病気をきっかけとしても、神さまはわたしたちの心を癒されます。
今回わたしたちの人生の旅路の途中で、「わたしたちを癒してくださるイエズスさまの秘跡」に
ついて、少しお話したいと思います。それは「病者の秘跡」といいます。
ご存じのように、わたしたちがイエズスさまに出会う方法は、「しるし」を通してです。
例えば、洗礼のしるしは「水」と「司祭の言葉」です。堅信のしるしも「按手」と「聖香油」と
「司祭の言葉」となります。またエウカリスチアのしるしは、「パン」と「ぶどう酒」、「イエズスさまがパンと
ぶどう酒の上に述べられたお言葉」です。
この三つの「入信の秘跡」に加えて、「いやしの秘跡」として知られている秘跡は二つあります。
それは、「ゆるしの秘跡」と「病者の秘跡」です。
実は、日本の社会にある“敬老の日”をきっかけに9月の日曜日を選んで、望まれるお年を召した
人々のために「病者の秘跡」を行うことがふさわしいのですが、今年もまた先送りになりました。
この秘跡について『カトリック教会のカテキズム』に書かれていることをまとめると、次のようになり
ます。(『カトリック教会のカテキズム』 1514〜17)
・この秘跡は他の秘跡と同じように、その人が「願うとき」に合わせて行われます。
・教会がミサのために集まってその中で行うことがふさわしいのですが、家庭や病院の中でも
行うことがあります。
・ご聖体拝領をともないます。“エウカリスチアはキリストの過越の秘跡ですから、常にこの世の
旅の最後の秘跡、永遠のいのちに「移る」ための「旅路の糧」でなければなりません。” とカト
リック教会のカテキズム(1517)には教えられています。
・高齢の人々への塗油の祈りを例としてあげさせていただきます。
いつくしみ深い神よ、老年になってわずらい、今、塗油を受けて、心とからだの救いを祈り
求める○〇〇を顧みてください。あなたの霊に満たされて慰めを受け、信仰と希望に支え
られて忍耐の模範となり、あなたの愛の喜びを現わすことができますように。わたしたちの
主イエズス・キリストによって。アーメン。
毎日新しい日のおとずれの恵みを感謝し、主に祈りたい。その日を通してわたしたちの心を癒し、
ご自分のささげものに加えて、わたしたちもいのちに満ちたささげものとしてくださるように。
では、また来週!