「わたしの正しい者は 信仰によって生きる」

  ―主任司祭メッセージ 9/19―


 ちょうど50年ほど前のこの季節に日本に来た私は、初めて“彼岸花”という花を知りました。
イタリアやアメリカでは見たことがありませんでした。
 お彼岸にあたって、亡くなった人々について、わたしたち教会の信仰を思い出させていただ
きます。
 実は、英語でこの季節はequinox
(エキノックス)といいます。それは昼と夜の長さが同じ日の
ことです。さらに私は “彼岸”の意味について調べてみましたら、思わぬ意味があると知りまし
た。“彼岸”は死者が涅槃の世界に入る川岸の意味で、この季節になると死者が子孫から
のお礼を受けるために戻ってくるそうです。
 さらに調べると、いわゆる死者の国は英語でnirvana
(ニルヴァーナ)といい、それはロウソク
を吹き消すような“blow out”(炎の消滅)の意味です。つまり、この世の苦しみが消されて
仏教で願う平和にたどり着くことを意味します。なるほどと思って、ロウソクの火を消すために
日本では息で“吹き消す”ことをしない理由がやっと分かりました。

 今の日本の皆さんは、「死」をどんなふうに捉えているでしょう? きっと希望に満ちた教会の
信仰の心を身に着けることに苦労があるかな と私は感じています。

 今回の見出し(タイトル)にさせていただいた文章から始めましょう。
 まず信仰は、“永遠に続くいのち”の基
(もと)であること がそこに記されています。また「死」は
その「いのち」に入るための最後の門であることも教えてくれています。「産む」は“光に生み
出す”とイタリア語では表現されます。同じようにキリスト信者にとっての死は、わたしたちを
永遠のいのちの光に“生み出して”くれます。
 教会の信仰は「福音」という言葉で記されていて、この日本語訳はその意味をよく表現して
いると思います。この“よいしらせ”の光のもとでこそ、わたしたちのいのちを“神さまの目”で見る
ことができるようになります。普通の目(感覚)で見ると、わたしたちはその世界が見えません。
このわたしたちの普通の感覚を神さまが癒してくださり、新しい目をくださいます。
 「信仰の目」のおくりもの(グラチア)がなければ、わたしたちが見えるのは、「死」(いのちの
終わり)だけです。過ぎ去る時間の中で、何もかもはかなく消えていきます。

 ご存じと思いますが、聖書の中で時間は二つの名前で表されています。それは、ギリシャ語
でクロノスとカイロスです。ギリシャ神話によると、クロノスは“その子どもを食べてしまう父”と
されています。それと異なって、信仰の感覚で捉える(見る)時間はカイロスと言い、それは
「恵みのとき」、つまり永遠に至るいのちに導く“とき又は場所”です。これこそ福音の書が
述べてくれる「よいしらせ」で、教会(わたしたち)の信仰です。

 信仰がくれる感覚によると、時間こそ「永遠のいのち」を経験する“とき”であり、その“とき”
の中でこそ、神さまがわたしたちに近づいてくださるのです。イエズス様が言われたのは、

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである  と。
(ヨハネ 10・10b)

 つまり、わたしたちの毎日は、隅々までも“いのちに満ちたもの”となっています。わたしたちの
毎日は、光が届かない暗いところも含めて永遠の光で満たされています。この信仰の感覚の
おかげで、わたしたちのこころの中に“新しい生き方”が生まれてくるのです。
 いのちは「おくりもの」なので、“生きること”も このいのちをささげものにすることですね。
この感覚をもって生きる人にとって「死」は最後のささげものですね。

 実は教会の祈りもこの感覚に基づいています。例えばカトリックの「葬儀」(儀式書)のキリ
スト教的意義の説明の中で、「追悼」について次のように書いてあります。

 41 キリスト教には死を「忌む」という観念はない。キリスト者にとって、死は神のみもとへの
 凱旋であり、新しいいのちに生まれる日だからである。古代の教会はこの信仰に基づき、
キリスト者の殉教の日、あるいは逝去の日を「誕生日(ナタリーチア) natalitia」と呼んだ」。
日本の習慣では逝去の日は「命日」と呼ばれるが、キリスト者にとってもまさにこの日は
「いのちの日」である。年ごとの「ナタリーチア」に信者は死者を祈念してミサを行い、死者の
安息(dormitio)を祈ったのである。
命日祭(祈念の集い)は、故人に哀悼の意を表し、故人の冥福を祈るだけでなく、復活
への信仰を新たにし、主のうちにあるきずなは死によっても断ち切られないという信仰を
表明することにその目的がある。したがって本儀式書では、この日の祈りの集いを「追悼」
とは呼ばずに「命日祭」(祈念の集い)と呼ぶことにした。

42 命日祭までにまだ埋葬を済ませていない場合は、遺骨を囲んでミサなどが行える
よう配慮するとよい。

 もしかするとロウソクの火を消すときはイエズス様の死を思い出すといいのかな? その最期の
息は新しいいのちの最初の息吹(聖霊の恵み)であったことを思い出して…。
 これと関係する文章があります。

イエズスはすっぱいぶどう酒を受けると、
「成し遂げられた」と言って、頭を垂れ、霊をお渡しになった。
(ヨハネ 19・30フランシスコ会訳、参照 ヨハネ20・22)

 またこれから、日本の彼岸花にも感謝することを忘れないようにしましょうね。
 
 では、また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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