神さまとともに生きる喜びに 導く信仰

  ―主任司祭メッセージ 9/26―


 今年の中秋の名月はことに美しかったそうです。
 まだ子どもの私が夜空を見つめながら、母と一緒に晩の祈りをしていたことを思い出します。
暗闇の中、母が神さまの話をしてくれていた時のあの深い驚きと感動、神さまの大きな愛に
包まれて生きていること、その安心と平和を思い出します。今はこの日本にいて、それを思い
出して感じます。あの夜空を通して、神さまはわたしたちへの愛を語ってくださるのですね。
皆さんは名月をみて、どう感じておられたでしょうか? 見えない神さまは、ご自分が創造さ
れた見える世界を通して、その愛を語ってくださる、素晴らしいことです!

 使徒ヨハネの手紙に次のように書いてあります。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、
自分がどのようになるかは、まだ示されていません。
(Jヨハネ 3・2a)

 今回、この使徒ヨハネの言葉を強調したいと思います。「今既に神の子ですが」…これ
ほど素晴らしいことがあるでしょうか。けれども実際にわたしたちが人を見るとき、本当には
何を見ているでしょうか? 人の姿の中に“神の子”を見ているでしょうか?
 人の心は見えないので、わたしたちは間違った関係を普段作りがちで、場合によっては
疑い、恐れから身を守ろうとし、壁を作ろうとしがちですね。結局、心を閉じてしまうのですね。
こうしてわたしたちは「父よ」と祈りながらも、兄弟であることは忘れてしまいます。つまり、
相手を疑い、“信じない者”となってしまいます。この態度から、人類を蝕むいろいろな悪が
生まれてきますね。
 そのために、わたしたちに“新しい目”をくれる聖なる信仰が必要です。これによって“神さま
の光のもとで”見ることができるようになります。人々の中に“神さまの存在”を見る感覚から、
わたしたち教会が生まれるのです。この感覚をもって見ることは「啓示」によって見ることです
が、「啓示」のもともとの意味は「覆いを取る」ということです。「真実を隠す覆いを取る」という
ことです。

 実は、人間のいのちは生まれる時から「信仰」と関わっていますが、「聖なる啓示」による
信仰は、わたしたちを“見えない神さまの世界”との関わりに導いてくれます。つまり、身体の
感覚によってわたしたちが知る世界は、この“見えない神さまの世界”に導く媒体となります。
 たとえば、わたしたちがプレゼントをする時にもそうではありませんか? そのプレゼントは、
見える世界と見えない世界とのつながりを表わし、またそのつながりを実現するものですね。
もっともっとこの信仰の感覚をもって生きたいなぁと思っています。

 キリスト信者は言葉通り、“キリストの目”をもって世界を見ています。信仰によってキリスト
さまに出会い、キリストさまを信じて生きています。

わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
(Jヨハネ 4・16a)

とある通りです。
 信仰はわたしたちを癒し、“心の目で見る”視力を回復させました。今はキリストの目を
もって見て生きています。まとめて言えば、キリスト者であるわたしたちは、見ている現実を
“神さまの愛を語るしるし”として読み取ることを学びながら生涯を送るのです。
 こうして、最初のヨハネの文章の続きも分かるでしょう。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、
自分がどのようになるかは、まだ示されていません。
しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。
なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
御子にこの望みをかけている人は皆、
御子が清いように、自分を清めます。
(Jヨハネ 3・2〜3)

 イエズスさまの次のお言葉を思い出しましょう。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイ 28・20b

 ご聖体の秘跡のしるしの中におられるイエズスさまと共に生涯の旅路を歩みながら、
わたしたちにいつも“信仰の目”をくださるように願い、また“その目をもってわたしたちの毎日を
見る恵み”の喜びを願いたいと思います。

 では、また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン


* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。

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