「真福八端」の道 わたしたちは「呼ばれた者」、わたしたちは「幸せ」へ呼ばれた者。呼ばれている者であるから、その呼びかけを「聞く耳」がなければ…。また聞く耳の前に心に「望み」がなければなりませんね。
この前の日曜日(10/31)に、福者と宣言されたばかりのサンドラ・サバッティーニは婚約していた23歳の女性ですが、事故で亡くなりました。彼女は清らかな心を持ち、信仰の深い人で、その日記に次の言葉を残しました。“神さまなしの生涯はうっとうしく、ひとときは楽しいけれど、死だけを待つ暇つぶしの遊び”と。やはりイエズスさまの存在は、わたしたちにとってそれだけ偉大なものですね。そればかりか、イエズス様こそが先にわたしのことを大切に思ってくださり、わたしたちに“夢中”なのです。それなのにわたしたちは、目先のことに心を惹かれて一時的な幸せを求めがちです。心は満たされず空っぽでむなしい経験をしています。 今回、わたしたちに教えられた“幸せへの道”について、ご一緒に思い出したいと思います。わたしたちの心の中にある深い幸せへのあこがれを満たすために…。ひと言でいえば、わたしたちの幸せは イエズス様です。イエズス様はわたしたちに幸せをもたらすために来られ、わたしたちの「福音」となられました。マタイの福音書には、イエズス様の心を表す「真福八端」と呼ばれるものが教えられています。ここでは詳しくお話できませんが、簡単にご紹介させていただきます。 真福八端の第一と第八が、他の六つの「幸せ」の枠となっていると考えられます。 これは、仕えられるためではなく、仕えるために来られたキリストの心を表わすものです。 こうして、イエズスさまが聖書の他の箇所で言われた通りのことをお示しになっています。それは、 『わたしは道であり、真理であり、命である。 ご自分が先だってわたしたちの道となられて、わたしたちもその後についていくことによって、イエズスさまの幸せに達することになります。 「『ダビデの子イエスよ、 福音の書には、このような出来事がいっぱいです。イエズスさまは皆をご自分に従ってくるようにとすすめてくださっていますが、誰もかれもがその呼びかけに応えられるのではありません。なぜなら、わたしたちはいつも目先に引かれて幸せを求めようとしているからでしょう。人の心を清める必要がいつもあります。 では、また来週! |