「真福八端」の道
―主任司祭メッセージ 11/7―

 わたしたちは「呼ばれた者」、わたしたちは「幸せ」へ呼ばれた者。呼ばれている者であるから、その呼びかけを「聞く耳」がなければ…。また聞く耳の前に心に「望み」がなければなりませんね。
 
例を挙げさせていただきます。日本語の勉強が始まったころ、なるほどと思ったことがあります。それは「首を長くして」待つという言葉です。教会の感覚で言えば、“待ち望む”心ですね。

 実は、イエズスさまに呼ばれて  その呼びかけに答えた人々の中のある方々を、教会は「福者」また「聖人」と定め、彼らをわたしたちの模範として示してきました。
 こんな歳になったおかげで、私も実際に会った方があります。たとえば、マザーテレサやヨハネ・パウロ二世です。

   いく  

 この前の日曜日(10/31)に、福者と宣言されたばかりのサンドラ・サバッティーニは婚約していた23歳の女性ですが、事故で亡くなりました。彼女は清らかな心を持ち、信仰の深い人で、その日記に次の言葉を残しました。“神さまなしの生涯はうっとうしく、ひとときは楽しいけれど、死だけを待つ暇つぶしの遊び”と。やはりイエズスさまの存在は、わたしたちにとってそれだけ偉大なものですね。そればかりか、イエズス様こそが先にわたしのことを大切に思ってくださり、わたしたちに“夢中”なのです。それなのにわたしたちは、目先のことに心を惹かれて一時的な幸せを求めがちです。心は満たされず空っぽでむなしい経験をしています。

 今回、わたしたちに教えられた“幸せへの道”について、ご一緒に思い出したいと思います。わたしたちの心の中にある深い幸せへのあこがれを満たすために…。ひと言でいえば、わたしたちの幸せは イエズス様です。イエズス様はわたしたちに幸せをもたらすために来られ、わたしたちの「福音」となられました。マタイの福音書には、イエズス様の心を表す「真福八端」と呼ばれるものが教えられています。ここでは詳しくお話できませんが、簡単にご紹介させていただきます。

 真福八端の第一と第八が、他の六つの「幸せ」の枠となっていると考えられます。
 
第一は次のようにあります。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
 
この表現は、マリアさまの心を思い出させてくれます。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(ルカ1・48)これらの人々は、神さまおひとりだけを頼りに生きる人々のことです。
 
第二は 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
 
つまり、イエズスさまのおかげで人々の苦しみと死も“いのちの泉”であるキリストにつながれています。
 
第三 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
 
暴力をふるうのではなく愛の道を選ぶ人が、神さまの御心に叶う人々であるということです。
 
第四 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
 
イエズスさまが教えてくださった言葉“御心が天に行われるとおり地にも行われますように”を大切にする人々のことです。
 
第五 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
 
神さまが憐み深いお方であるからですね。
 
第六 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」
 
目先の楽しみに縛られず生きる人々のことです。
 
第七 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
 
人との間に壁を作るのではなくキリストの愛の橋渡しとなる人々のことです。
 
最後に「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

 これは、仕えられるためではなく、仕えるために来られたキリストの心を表わすものです。

 こうして、イエズスさまが聖書の他の箇所で言われた通りのことをお示しになっています。それは、

『わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない…』
(ヨハネ14・6)

 ご自分が先だってわたしたちの道となられて、わたしたちもその後についていくことによって、イエズスさまの幸せに達することになります。
 
そのためにわたしたちは、先に癒していただくイエズスさまに出会わねばなりません。そればかりか、心の中にある願いを訴える必要があります。エリコで物乞いをしていたバルティマイに学んで、呼びかけねばなりません。

「『ダビデの子イエスよ、
わたしを憐れんでください』…
イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。
盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。
そこで、イエスは言われた。
『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』
盲人は、すぐ見えるようになり、
なお道を進まれるイエスに従った。」
(参照 マルコ10・46〜52)

 福音の書には、このような出来事がいっぱいです。イエズスさまは皆をご自分に従ってくるようにとすすめてくださっていますが、誰もかれもがその呼びかけに応えられるのではありません。なぜなら、わたしたちはいつも目先に引かれて幸せを求めようとしているからでしょう。人の心を清める必要がいつもあります。
 
わたしたちはみな「幸せ」に呼びかけられていますが、その呼びかけに応えるのは一人ひとりの選択と決心によるものですね。それぞれの人の心の承諾がなければ、神さまのいのちである愛を知ることはできないからです。

 では、また来週!

カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。