地上の国々と異なる「神(天)の国」
―主任司祭メッセージ 11/21―


   いく  

 わたしたちがいつも祈る「主の祈り」でも、神(天)の国のために祈ります。「御国が来ますように」と。
 さらに福音、すなわちまことの幸せ(いのち)のよい知らせは、イエズスさまが次のことばでその到来を宣言されています。

 

「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」
と。
(マルコ1・15)

 神の国の実現を祝うのが、「王であるキリスト」の祭日です。この日のミサの叙唱は、次のことばで神さまを賛美し、こうあります。

聖なる父…あなたはひとり子である主イエス・キリストに
喜びの油を注ぎ、永遠の祭司、宇宙の王となさいました。
キリストは十字架の祭壇で、ご自分を汚れのない和解のいけにえとしてささげ、
人類あがないの神秘を成しとげられ、宇宙万物を支配し、
その王国を限りない栄光に輝くあなたにおささげになりました。
真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国。…

 実は自然の中に働く秩序に驚き学びながらも、人類の一致をつくることができないのがわたしたちです。わたしたちのこころの中に、罪のために分け隔てが入った“あの時”から、天と地をつなぐ国ではなく人間が地上のことだけを考えて国々をつくり、壁などの分け隔てのために神さまのみはからいに逆らうことになっているばかりです。

 スウェーデンのグレタ・トゥンベルトのような若い世代は、世界が「ブラ、ブラ、ブラ…(おしゃべりばかり)」していると非難します。しかしキリスト信者であるわたしたちは、神さまのみはからいをよく知っていて、その道を歩んでいます。わたしたちは、イエズスさまの祈り、ことにミサの祈りのささげものに加えられて、こころを一つにしてその実現のためにいのちの奉仕をします。
 パウロが次のように書いています。

(神は)秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。
これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、
あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。…
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、
そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
(エフェソ1・9、10、13)

 「聖霊」こそが「神の国」を今も実現するイエズスさまのくださる神(天)からのおくりものです。こうしてミサの時も、わたしたちを表すパンとぶどう酒の上に、司祭は次のことばで祈ります。

まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、
今聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。
わたしたちのために 主イエズス・キリストの
御からだと 御血になりますように 
 と。
(第二奉献文) 

 まことに王であるキリストの祭日は、「神(天)の国」の実現を祝う日です。わたしたちに先だった兄弟(聖人・死者)のうちに、また旅する教会であるわたしたちにのうちに、この国は「すでに実現されている」国です。
 そのため教会は、キリストの体としてすでに今日のわたしたちの世界の中に「主の平和」をもたらし、また更なる実現のために派遣され続けています。つまり歴史の流れの中で神さまのプロジェクト(みはからい)を実現するために…。
 教会は、人々が選びがちな平和への道とは異なって、人のこころの中に「天と地の一致による和解」をつくられる「道」であるキリストをたどってその道を実現します。つまりキリストさまによる「ゆるし(十字架による和解)」によって です。
 教会を通して実現される平和は、「人のこころの中に調和をつくる」キリストの平和です。教会は、「よい知らせ」をもたらすために世界のすみずみにまで派遣され、人のこころのすみずみまでを新たにし、赦しを通して平和をもたらします。

 それぞれの地方に存在する教会は、世界中に派遣された使徒がもたらす福音の基で生まれたもので、日本語で「教区」と言われますが、教会(エクレジア)の本当の姿をあらわす言葉は、すでに説明したように「アガペ」または「「コムニオ」と言います(メッセージ 11/14参照)
 つまり、わたしたちと共にいつもおられるキリストがすべての教会を養ってくださる ということです。「ミサ」とその他の「秘跡」のうちに存在されるキリストです。またわたしたちをご自分の祈りに加えてくださるキリストです、この世が終わるまで…。
 その終わりの時について、使徒パウロがこう言われます。

次いで、世の終わりが来ます。
そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、
父である神に国を引き渡されます。
(Jコリント15・24)

 ここで、イエズスさまのピラトへのことばを思い出したいと思います。

イエスはお答えになった。
「わたしの国は、この世には属していない。
もし、わたしの国がこの世に属していれば、
わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。
しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
そこでピラトが、「それではやはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。
わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。
真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
(ヨハネ18・36〜37)

 イエズスさまは「道、真理、いのち」(参照 ヨハネ14・6)で、ご自分のうちに神さまのみはからいを実現されましたが、この世に来られたのは、皆がいのちを受けるため、また豊かに受けるためでした。

「…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
(ヨハネ10・10b)

 これこそ王であるキリストの祭日を祝う意味でしょう。

 では、また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。