「罪」とキリストによる「救い」
―主任司祭メッセージ 3/20―



 

 このところコロナやパラリンピック、震災の話題はどこかにいっていまい、ウクライナ紛争のニュースが人々の心に重くのしかかっています。このニュースの中で、印象に残った一人の女性のインタビューの言葉がありました。「戦争は人がすることだからね」と。
 この言葉は、わたしたちに深い真実を思い出させてくれます。この最も大切なことをどう扱えばよいのか分からず、わたしたちは怖れや迷いを感じ話すこともできないのです。

 たしかにみな平和を望み平和を求めて生きていますが、戦争の根っこにあるものは病気にかかった心に宿るものなので、そこには救いが必要です。平和の道は人のこころの回心によるものですね。この真実を教会はよくわかっています。教会がある理由はここにあります。教会は「死んで復活されたキリスト」という救いを信じるからです。教会は神の愛を信じ、死に打ち勝つ愛の力を信じています。

1.この世に死が入ったのは罪のためである ということをわたしたちは知っています。(参照 創世記3・1〜)つまり最初の誘惑によって人の心に「罪」(原罪)が入りました。また罪と共に「死」も入りました。この罪への傾きから解放してくれるものは「恵み/グラチア」のおくりものであり、キリストによる神さまからの愛のおくりものなのです。使徒パウロは次のように説明します。

すべて悪を行う者には、……苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、……栄光と誉れと平和が与えられます。(ローマ 2・9〜10)

2.では罪とはどんなことでしょうか。人は誰でも善を行うことを望みますが、選択の前に置かれると、目で見えるものを選び、見えない神さまを退けるようになります。これは悪魔のイエズスさまへの最初の試みでもありました。そのときイエズスさまは「見えるパン」より見えない神さまの「言葉」を選ばれましたね。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ 4・3〜4)

 キリストを信じる私たちもキリストさまと同じ心を持つ恵みをいただいています。まさしくイエズスさまは「新しいアダム(人)」で、最初のアダムが負けた誘惑にイエズス様は勝たれたお方ですね。誘惑への勝利は、愛でおられる神さまを“信じて従う”ことですね。確かに“信仰をもってイエズスさまに従う”、これこそ自由にもとづく新しい心の選択です。これがわたしたちを“神の子ども”にしてくれるものです。つまり愛である神さまの「善さ」に加えていただく ということです。

3.歴史の流れの中で人の心の病気が数々の罪として人の「行い」の中に現れますが、聖書は最初の悪い行いとしてカインとアベルのエピソードを語っています。そのときカインは兄弟アベルを殺しましたね。つまりどんな罪もその現れは「暴力」で、神さまの愛に満ちた御はからいを信じず、勝手に命を手に入れようする「行い」です。
 歴史の流れの中で長くエジプトに住んでいたイスラエルの民は罪の感覚を失っており、そのエジプトからの解放のとき、神さまはモーセを通して「十戒」をお与えになりました。ここには法(掟)の形で罪の現われが示されています。

4.教会の始まり、つまりイスラエルの民に与えられた「十戒」を知らなかった異邦人が神さまを信じるようになったとき、使徒たちが「十戒」にかたどって、罪の行いの現われを示すために 分かりやすく罪のリストをつくる必要を感じ、「罪の結ぶ実」または「霊の結ぶ実」と分けました。例を一つ挙げましょう。パウロはガラテアの教会へ次のように書きました。

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれ、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。(ガラテヤ 5・19〜26)

 イエズスさまご自身の言葉もあります。

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ 6・43〜45)

 神さまの大きな救いの内にいるわたしたちは、まだ少し道のりのあるこの四旬節をイエズスさまとともに良い旅路になるように歩んでまいりましょう。

 では また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。