主よ、わたしに新しい心を…
―主任司祭メッセージ 3/27―



 

神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐みによって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。

あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。(詩編 51(ミゼレーレ)・3〜6a

 この祈りは罪を犯したダビデ王が憐み深い神さまへ赦しを願う叫びの一部です。この詩編は、神さまの赦しと「ゆるしの秘跡」の恵みの尊さを教えてくれます。
 
罪とは、神さまの造られた世界の秩序に逆らう人間の行動(暴力)ですが、わたしたちは罪を犯したときに自分を“隠そう”とします。

ふたりの目は開け、自分たちが裸であることを知り、ふたりはいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえて来た。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」(創世記 3・7〜9a)

 “身を隠す”とは、嘘をついて心の中を隠そうとすることです。“裸”という状態は神さまの前に「無垢」な姿でいることができなくなった ということです。神さまの前に生きる喜びを失い、不安に陥っている状態です。
 
この哀れな状態からわたしたちを救い 御自分の憐み深い御顔を現わすために、神さまは人間となられて、わたしたちに赦しへの道を開いて下さいました。このあわれみに満ちた愛を信じることを教会は「回心」と呼びます。

 実は罪の赦しを与えるキリストさまとの出会いである「秘跡」は三つあります。
 
最初は「洗礼」です。これによってわたしたちはキリスト信者として生きる“いのち”をいただきます。
 
第二は「病者の秘跡」です。罪から生まれた「死」との闘いの時のための秘跡です。
 
第三は「ゆるしの秘跡」で、わたしたちが人生を歩む中、罪に出会う度にいつも受け、洗礼の“いのち”に新たに帰していただく恵みです。
 
秘跡はすべて ことにエウカリスチア(ご聖体の秘跡)は初めの洗礼の“いのち”を支える恵みをくれるものですが、この三つは神の赦しを目的とする秘跡です。初めに引用した詩編には次の言葉もあります。

神よ、わたしのうちに清い心を造り、あなたのいぶきでわたしを強め、新たにしてください。わたしをあなたのもとから退けず、聖なる息吹を わたしから取り去らないでください。
あなたはいけにえを望まれず、はんさいをささげても喜ばれない。神よ、わたしのささげものは打ち砕かれた心。あなたは悔い改める心を見捨てられない。
(詩編 51・12〜13、18〜19 「毎日のミサ」訳)

 赦しは“新しい心”を取り戻す恵みで、神さまに向かって「父よ」と呼びかける資格をわたしたちに返してくれます。回心から生まれ、わたしたちにも人を“ゆるす力”を与えてくださる恵みですね。「罪の怖さ」を乗り越えて、神さまの前にいる喜びをいつも新たに味わうのです。
 
わたしたちは“永遠のいのち”を求めながら歩んでいる旅人ですが、いつも回心の道を学ばねばなりません。 “先に”愛してくださる神さまの憐み深さによって、旅人であるわたしたちは洗礼の時にいただいた“新たないのち”にいつも戻していただく必要があります。
 
またイエズスさまの赦しによる愛の業を毎日体験し、その愛のうちに生きる つまり“赦し合う”ことを学ばねばなりません。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします とイエズスさまが教えてくださった祈りに倣って生きなければなりません。

 わたしたちが不忠実である度ごとに赦してくださるイエズスさまの恵み 「ゆるしの秘跡」を通して、いつも新たにされなければなりません。

 わたしたちの救いは、十字架につけられたイエズスさまと同じように赦す恵みを知ることから生まれます。イエズスさまが先にわたしたちの罪の重荷を担ってくださったので、わたしたちも互いに罪の重荷、世界中の重荷を担い合う喜びを知ることになるのです。
 
使徒パウロはガラテヤの手紙の中でこのことを教えてくれます。

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラテヤ 6・2)

 イエズスさまの十字架上のお言葉に心に留めましょう

[そのとき、イエスは言われた。「父よ、かれらをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」]  と。(ルカ 23・34)

 元気を出してよい旅を続けましょう!
 また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。