四旬節のあゆみは、エルサレムへと導きます。エルサレムでイエズスさまの救いの業が成し遂げられるからです。 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコ10・32-34) こうして、エルサレムに入場されるイエズスさまをメシア/キリスト(神さまが救い主として送ってくださるお方)を迎え入れる人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マルコ11・9-10)と歌います。イエズスさまご自身が公生活の初めに宣言されたお言葉が実現する出来事ですね。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・15) これらの出来事はことごとく“しるし”を通して表現され、記されています。ことにイエズスさまはこの世の王様たち(権力者たち)と違って、馬に乗ってではなく「ろば」に乗ってエルサレムに入場されますね。ロバは重い荷物を担う動物で、イエズスさまが言われたお言葉を思い出させてくれます。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28-30) 枝でイエズスさまを歓迎する人々と共に、わたしたちも福音を信じる人々の“あかし”を枝で表します。見えない神さまは見えるしるしを通してでなければ、知り味わうことはできません。“しるし”となるものがなければ愛のあかしになりません。 教会の信仰は、神さまが語られる愛の二つの言葉を信じています。もともと神の創造の世界の中に響いているその愛の言葉 つまり「神さまの善さに満ちた世界」という言葉、もう一つは神さまがこの世に送ってくださったみ言葉である「キリスト」という言葉ですね。イエズスさまの愛に満ちたお言葉は人の罪に勝つ憐れみ深い愛の言葉ですが、この愛の言葉を証し し続けるのはキリストを信じるわたしたち 教会の証ですね。これを可能にしてくれるものは、常に回心に招く愛の言葉を信じてわたしたちが洗礼の時に宣言したその「信仰」です。 興味深いしるしについて思い出させていただきます。クリスマスを迎える季節の典礼の中で、教会は次のように呼びかけます。 ダビドのかぎ、イスラエルの家の王しゃく、… この鍵を持って来られたお方は救い主キリストですね。 『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25・40) 枝の主日によって始まる「聖なる週間」は、憐れみ深い“神の愛のしるし”を通して救いの神秘をあらわし、またそれを教会として祝う恵みを与えてくれます。それは、洗礼の時から頂いた“天のいのち”を味わい、それを証しする喜びを味わうためです。 では、また来週!
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