生まれたばかりの 乳飲み子のように…
(Jペトロ 2・2)

- 主任司祭メッセージ 4/24 -











 ペトロの手紙にある この表題の言葉は、洗礼によってわたしたちが「新しいいのち」に生まれたことを表わしますね。 

あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に変わることがない。」
これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。(Jペトロ 1・23〜2.2)

 この「新しいいのち」は、わたしたちをその“教会”にしてくれる復活されたイエズスさまの贈り物(恵み グラチア)です。新しいいのちの恵み、それはイエズスさまの“目”をもってすべてを見る“新しい目”の恵みであり、またイエズスさまの心ですべてを愛する“新しい心”の恵みです。これを可能にしてくれるのは、死んで復活されたイエズスさまへの信仰ですね。

 わたしたちが信仰に達し、その信仰が成長するのは、陽の光と同じような歩みです。夜明けがあり、あけぼのを迎え、陽の光が真昼に向かっていきます。まさしく箴言の書にある通りです。

「神に従う人の道は輝き出る光
進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。」(箴言 4・18)

 教会が復活徹夜祭の典礼を通して表す“復活のろうそく”は、人のこころの闇を照らす新しい光 キリストを表現しています。

ただ、身体の目の感覚と違ってキリストを信じるために心の承諾がなければ新しい光 キリストは見えませんから、わたしたちは常に信仰の恵みを祈らねばなりません。弟子たちもイエズスさまにお願いします。

「わたしどもの信仰を増してください」(ルカ 17・5)   と。

 こうして、復活徹夜祭の典礼の中心である「入信の秘跡」を通してふさわしく新しい兄弟が迎えられ、教会の信仰に加えられることになっています。今と違って洗礼は昔“水に沈める”ように行われていましたので、新しいいのちが生まれることをよく表わしていました。洗礼に続く堅信の秘跡は“新しいいのち”の力である聖霊が与えられることを表わし、さらにそのいのちを養うご聖体拝領は、新しいいのちを養い育て、旅路を支えてくれる糧ですね。

 キリストを生きる「新しいいのち」はわたしたちの内で成長するので、その新しさに満ちたいのちの生き方を学ばなければなりません。きっとこれをイメージして、ペトロは「生まれたばかりの 乳飲み子のように…」と手紙で教えてくれました。

生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。(Jペトロ 2・2〜5)

 わたしたちが「新しい目」ですべてを見「新しい心」ですべてを愛するために、わたしたちはイエズスさまをずっと見つめて生きるべきですね。
わたしたちの毎日を“イエズスさまと共に見ること”、またわたしたちの毎日を“イエズスさまの心で受け入れること”、これこそキリストさまがくださった「新しいいのち」に生きることなのです。
 
ヘブライ人への手紙にも次のように語られています。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ 12・1〜2a)

 こうしてわたしたちもイエズスさまと共に良い旅路を続けましょうね、主の平和のうちに。

  また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。