「わたしがあなた方に伝えたものは、
わたしも受けたものです…」

- 主任司祭メッセージ 5/1 -








 使徒パウロのコリントの教会への手紙に 教会の信仰について次のように書かれています。 

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなた方が受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。…(Jコリント15・1〜5)

 使徒パウロのこれらの言葉は、わたしたちの信仰について最も大きなことを思い出させてくれます。それは、使徒たちが信じ、また彼らが伝えたことをわたしたちが“信じる”ことです。使徒たちが信じたこのことは、大きな出来事です。つまり、イエズス様が死んだ後復活されたことですね。
 
彼らは全く新しいこの出来事の証人であり、彼らの信仰はこの出来事に基づいています。イエズス様は知恵を伝える人、例えば学者とか教師ではありません。むしろイエズス様は人間である私たちに先立って“全く新しい道”を辿られ、拓いたお方です。死んで復活されたという出来事 この真実をとおして神さまは最も新しいことを私たちに示してくださいました。イエズス様の死に至るまでの歩みと同じように私たちの地上での歩みも主の復活とつながっていることを示してくださり、死ではなく新しいいのちへの誕生 つまり神の子として生まれることを示してくださったのです。

 ほかの個所にパウロは次のように書かれます。

もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(ローマ6・5〜8)

 まさにイエズス様の死と復活の神秘をとおして、この世に“目で見えない新しさに満ちた生き方”が入った出来事ですね。

 今日は教会の信仰がかたちをとるようになった経緯について、少し馴染んでみたいと思います。すでに前の文にあったようにパウロはコリントの教会の信仰のまとめを伝えています。(参照 Iコリント 15・3〜8)しかし今日紹介させていただきたいものは、リオンの聖イレネオ司教の言葉によるものです。彼は使徒パウロの100年ほど後、異邦人の世界であったフランスに教会の信仰を下記のように伝えました。

 教会は地の果てに至るまで全世界に散らされていますが、使徒たち、およびその弟子たちから、「天と地と海とそこにあるすべてのものをお造りになった」唯一の神、全能の父(を信じます)。神の子で、わたしたちの救いのために受肉したひとりのキリスト・イエス(を信じます)(また教会は)聖霊とに対する信仰を受け取って(いて)、この聖霊は預言者たちを通して、救いの営みのさまざまな出来事を宣言した。
 それら(預言者たち)は、わたしたちの主であり、父から愛されているキリスト・イエスの到来と処女(おとめ)からの誕生、受難と死者の中からの復活、肉体をもったままの昇天、父の栄光に輝いているその天からの来臨(を宣言した) 。キリストがそのように来臨するのは、頭(かしら)であるご自分のもとに「あらゆるものを一つにまとめ」(エフェソ1・10)あらゆる人間のすべての肉体を復活させるためである。
 
それは、見えない御父がよしとするところに従って、わたしたちの主、神であり、救い主、王であるキリスト・イエスに、「天上のもの、地上のもの、地下のものが、すべてひざまずく」(フィリピ2・10)ためであり、また「すべての舌が彼をほめたたえる」(フィリピ2・11) ためであり、そしてすべての者に対して正しい裁きを行う(ローマ2・5)ためである。

 この使信とこの信仰とを、先に述べたとおり教会は受け取っており、全世界に散らされてはいても、一つの家に住むかのように注意深くこれを守り、また一つの魂、一つの心をもつかのように、これらを同じように信じ、一つの口をもつかのように声を合わせてこれらのことを宣べ伝え、教え、伝達している。…(聖イレネオ司教『異端反駁』より)

 最近パパフランシスコは、聖イレネオを「教会博士」に宣言されました。
 
実は時代が進むとともに、この変わらない信仰について より理解が深まり、今はこの信仰が「カトリック教会のカテキズム」にまとめられています。教会は、教会が信じることを祈り つまり教会の典礼を通して祝うのですが、その「祈り」とその「信仰」は一致するのです。例えば、教会の礼拝が行われるミサは教会の信仰をも表すものですね。

 教会の信仰を守る任務を与えられたのは聖ペトロであって、またそのペトロの後継者であるパパ様ですね。イエズス様の ペトロへのお言葉を思い出しましょう。

「…しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・32)

 また来週!



カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。