あなたがたに平和

- 主任司祭メッセージ 5/15 -






 「あなたがたに平和」、
 復活されたイエズスさまの 弟子たちへのこの挨拶は、「新しい世界」の始まりを宣言します。この「新しい世界」は、弟子たちに与えられた“新しい心の目”の恵みよって生まれるものです。この信仰の恵みによって、今わたしたちも「新しい人類」となり、新しい創造 イエズスさまが望まれた「教会」になります。
 けれどもそのために、「新しい心の目」を持って見ることを学ばなければなりません。そうしてようやく天と地がつながり、消えていく世界と永遠に続く世界とのつながりを見ることができるようになります。
 復活されたイエズスさまの弟子たちへのあいさつの言葉は、次のようにあります。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、かれらに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ 20・19〜23)

 この聖書の言葉には、まずイエズスさまの十字架上の死のために恐れで固まってしまっている弟子たちの姿が表されています。これを表すことによって復活されたイエズスさまの死に対する勝利が強調されています。イエズスさまがもたらされた「平和」はここから生まれます。さらにそこに記されているのは、イエズスさまによる平和が世界中に実現されるために彼らを派遣されるミッションですね。最後にイエズスさまが言われるのは、このミッションは“愛の重荷を背負うこと”つまり“赦し”であり、これによってミッションが実現されることです。そのために神さまの聖霊を彼らに与えてくださいます。

 この二ヵ月ほどわたしたちはウクライナへのロシアの侵攻によって「戦争」について身近に考えるようになりました。世の初めから、人間は自然災害と同じように戦争を“仕方のないもの”として考えがちです。けれどもそうではありません。戦争と平和、それは人間によるものだからです。四十数年前、日本を初めて訪れた聖ヨハネパウロ二世は、広島でのスピーチをこの言葉で始められました。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。…」と。
 戦争は昨今のコロナウィルスや地震などのように、それと共存することを考えたり、“仕方のないもの”として受け入れるものではありません。戦争は人間の心の問題なのです。心の問題とは、人間は神さまの“いのち”にあずかり、それによって“生きる”者であるからです。
 つまり人のこころは神さまのこころと響き合い調和し、一つにならなければなりません。聖書の言葉で言えば、羊たちがその羊飼いの声を聞き分けて従っていくのと同じです。
 それなのに、原罪があるためわたしたちは自分のいのちを守るために、この地上だけによる知恵を働かせ いのちの木からその実を“奪い取ろう”とします。こうしてもともと神さまの愛を表すいのちのおくりものを、人間は自分のものにしようとして奪い取り、自分の心の中にあるいのちに逆らう傾きを起こします。この傾き(欲望)には限りがありません。どんなに手に入れてもいつまでも満足することがありません。暴力、分裂と戦争の始まりがここにあります。

 こうして神さまが“人間となられた”のは、新たないのちへの道を開くためであって、それは手に入れようと奪い取るためではなく、いのちを“ささげる”心を人間に戻すためでした。そのためにわたしたちの死を背負ってくださり、わたしたちに「新しいいのち」と「平和」への道を開いてくださいました。こうしてイエズスさまが言われます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ 14・6)

 またさらにこう言われます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ 11・28〜30)

 こういう理由でこの世の平和が話題になるとき、武器や軍事力、戦略など力比べだけの話が手段になると考えることは、とても悲しいことですね。これはスポーツやゲームの中に働いている力で、これはいつまでも足りません。むしろそれを頼りにすると戦争はゲームとなり、戦争をする人間は“人間らしさ”を失くします。相手は倒すべき敵となります。手をあげて兄弟アベルを殺したカインの繰り返しですね。そればかりか現代こそ人間はその武器で自身を破滅させかねません。「戦争は死である」からです。

 この時こそ教会の信仰を新たにしキリストさまとこころを一つにして、人の罪の重荷を背負い、死と暴力の力に打ち勝ちたいと思います。この世に神の国のおとずれが早く来ますように!
この国は、正義の国、愛の国、平和の国です。

「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙示録 21・5)



また来週! 



カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。