わたしたちは 天と地をつなぐキリストの体 - 主任司祭メッセージ 6/4-
信仰の恵みを知らない人は、 昼を知らない人と同じように闇の中に歩んでいます。しあわせ、いのち、平和を求める人もそうで、信仰の恵みなしにその道は見えず、闇の中にいます。それは、「昼」が自分の力で手に入れるものではなく、“いただく”贈り物であるからです。 ですが、他の人々と異なる道に歩み出したからこそ、憎まれ迫害を受けるのです。それなのに「天」を知ることができたので、キリスト信者は希望に支えられて耐え忍び、わたしたちの「主」となられたキリストに従って道を歩みます。 「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14・6) 今日はまた「ディオグネトスへの手紙」の続きをご一緒に読みたいと思います。“体の魂”としてある教会はどんな姿であるのか、次のように書かれています。 6・1 一言で言うなら、魂が体の中にいるように、キリスト者は世の中にいるのです。 このたとえとは? 手紙がその2から4にその理由を次のように説明します。 6・2 魂は体のすみずみまで生き渡っていますが、同様にキリスト者も世界の諸都市に行き渡っています。 6・3 魂が体の中に宿っても体のものではないように、キリスト者も世に宿っていますが、この世のものではありません。 6・4 目に見えない魂は目に見える体の囚人となっていますが、キリスト者も世の人たちの目には見えても、彼らが神にささげる敬いは目にふれることはありません。 ここでイエズス様のお言葉が浮かんできます。 あなたがたは地の塩である。…あなたがたは世の光である。(マタイ 5・13−14) つまりキリストの体であるわたしたちにもイエズス様とつながっているミッションがあり、イエズス様を証しするために教会となっています。 6・5 体は魂を憎み、不正な仕打ちを受けているわけでもないのに、魂に対して戦いを挑みます。体が快楽におぼれることを、魂が禁じるからです。不正な仕打ちを受けているわけでもないのに、世もキリスト者を憎みます。彼らが世の快楽に反対するからです。 つまりイエズス様が言われた通りですね。 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。(ヨハネ17・14) 次に魂の態度について次のように書かれています。 6・6 魂は自分を憎んでいる体とその肢体を大切にします。キリスト者も自分を憎む人たちを大切にします。 イエズス様も言われた通りです。 しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5・44) 6・7 魂は体の中に閉じ込められていますが、体を支えているのは魂のほうなのです。キリスト者も、いわば世の牢獄に閉じ込められていますが、世を支えているのは彼らなのです。 ここも参考になるイエズス様のお言葉があります。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3・17) 続いてさらに、教会の信仰の魂について最も大きな真実が書かれています。 6・8 魂は不滅ですが、死すべき幕屋の中に住んでいます。キリスト者も、朽ちることのない天を待ち望みながら、朽ちるべき世の生に寄留しています。 つまりはかなさの中に置かれて死に向かっていく身体が、天に属している魂とつながっていることを信じて キリスト信者は「旅する教会」であることを自認し、永遠の命を待ち望みながらこの世の旅を続けています。 6・9 魂は飢えや渇きによっていじめられると かえってよいものになりますが、キリスト者も苦しめられれば苦しめられるほど、日々その数を増してゆきます。 6・10 神は彼らにこの偉大な地位を割り当てられたので、それをかなぐり捨てることは、彼らにはゆるされないのです。 人はその内におられる「息吹」である聖霊に身をゆだねなければ、この地上だけに閉じ込められて闇の中に生き「昼」を知らない者となってしまいます。神さまの息吹に身をゆだねれば、天が開き天と地はつながり、まことのいのちを知り感謝と希望と愛をもって生きる幸せを味わうのです。 復活された主イエズス様の弟子たちへあいさつの言葉を、わたしたちの挨拶の言葉としたいと思います。 「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19) また来週!
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
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