2022年6月26日 「アベルの日」 今年は三年目 主任司祭メッセージ No.114 カトリック百合ヶ丘教会主任司祭
カインとアベルの話は皆さんご存じですね。この
話は原罪による哀れな結果を示す話です。善さに満ちたこの世界に罪が死を招き入れたことを このエピソードは表しています。 神が死を造られたわけで
はなく、
命 あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。 生 かすためにこそ神は万物をお造りになった。 (知 恵の書1・13〜14a) 神さまはご自分が造られた世界に「秩序」を入れられました。たとえば、太陽が朝寝坊することはありませんね。けれども神さまは人をお造りになったとき、人
をご自分に象って造られ、人間の心に自然の中に働く力と異なった新しい力を入れられました。それは“神さまの愛のうちに生きる”力です。神さまは愛である
からです。この力がなければ、人は愛を知ることもないでしょう。 わ
たしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、 神もその人の内にとどまってくださいます。 (Tヨハネ4・16) つまり神の愛の内にとどまるために人間は神さまの愛の言葉を“読み取る”ことを学び、それを“信じ”なければなりません。そうすると、罪は愛である神さま
への不信仰であることが分かるでしょう。 ですがアダムとイブは誘惑者の言葉を信じまし
た。実は最初の暴力の元こそ
この誘惑者の言葉にあります。この言葉は真実を偽った「嘘」です。その時から人の心には不信が入り、神さまの言葉を信じて生きる力が弱まり、暴力を通して
いのちを求めるようになりました。つまり暴力は神さまから愛されていないという感覚から生まれますね。いのちは“いただく”ものではなく、暴力をふるって
“手に入れる”ものだというこころです。ここからあらゆる嫉妬心が生まれます。その心はカインの暴力を生みました。 人の心の中に働くこの「死」の力に勝つために、
人は神さまに愛されていることを知らなければなりません。ここに導く恵みは信仰です。イエズス様を通して罪を贖ってくださった神さまの愛を信じることです
ね。 1.この教会が体験した暴力を思い出しこの世の
暴力の存在をしっかりと認識しながらも、これに対する神の愛を“信じる”ことです。“信じること”は、こころの中の確信を平和の道につなげることです。
(参照:マタイ5・1〜12) 2.“神の愛を信じる”ことはイエズスさまが導
いてくださる新しい道ですね。これはイエズスさまと共にその暴力の重荷を御父のみ手にゆだね、イエズスさまとともに愛のささげものとしてその暴力の重荷を
“ささげる”ことです。十字架上のイエズスさまのお言葉どおりです。 父
よ、彼らをお赦しください。 3.こうしてイエズスさまのもとで新しい世界
つまり平和への道が開けますね。この新しい世界は、わたしたちがミサを行うたびに実現され、またそれを造るために派遣される世界です。 兄
弟を憎む者は皆、人殺しです。(Tヨハネ3・15a)
終わりにミサの聖変化の後の第一奉献文の言葉で祈りたいと思います。 カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン
主
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