待降節 それはキリストを待ち望む季節
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、 つまり、新たな希望のもとになったのが神さまの約束の言葉でした。その約束はキリストさま(来るべきお方)を通して実現されました。 実はわたしたちキリストを信じる者は、ようやく来られたイエズスさまによってこの希望を知り、旅する民としてキリストさまがもたらされた希望のうちにすでに生きています。神の国の完全性を待ち望んで旅を続けています、主が来られるときまで…。 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで と。 さらに主の祈りの後に、次のように続きます。 いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、 わたしたちが目指している姿は、使徒パウロが次の言葉で表現しています。 生きているのは、もはやわたしではありません。 実は自然の働きからみても、人は胎内にいる時から相手(母)の存在によって生きています。また生まれてからも、赤ちゃんはそのお母さんの顔をみることを楽しみに生きています。それと同じように、神さまがわたしたちに教えてくださった掟は次のようになっています。 主なる神は言われた。「人が独りでいるのはよくない。 愛する人がいるからこそ幸せがあります。イエズスさまのお言葉にすれば、わたしたちの好き嫌いではなく「これらのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしたことである。」(マタイ25・40)となります。ここにキリストの心があり、ここにわたしたちのいのちの泉があります。 クリスマスはこのキリストさまの心を教えてくださいます。待降節はその心への準備のときです。どのお母さんもお父さんもその胎内の子を迎え入れるために準備をするように…。 主は母の胎にあるわたしを呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。… 待降節に待ち望む心をはぐくんでいきたいと思います。そうすれば、クリスマスもきっとすばらしいときとなり、まことの幸せ、喜びと平和をもたらしてくれるでしょう。 では、また来週!
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