待降節 それはキリストを待ち望む季節
―主任司祭メッセージ 11/28―


 

 

教会は一年間の暦でキリストさまによる人類の救いの歴史をお祝いします。その歴史は、人の心にある希望がかなえられる歴史です。その完全性を表わすのが「王であるキリスト」の祭日でした。これから教会はあらためてその希望の歴史の始まりである「待降節」をお祝いします。
 あらゆるいのちあるものの中で、人間だけが希望によって生きる者です。人間は希望がないと生きる力が湧いてきません。
 人間の心の中におかれた希望がゆらぐことになったのは原罪です。けれどもその罪による死から開放してくださったお方はキリストさまです。
 使徒パウロの言葉をお借りしましょう。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
(ローマ5・18)

 つまり、新たな希望のもとになったのが神さまの約束の言葉でした。その約束はキリストさま(来るべきお方)を通して実現されました。

 実はわたしたちキリストを信じる者は、ようやく来られたイエズスさまによってこの希望を知り、旅する民としてキリストさまがもたらされた希望のうちにすでに生きています。神の国の完全性を待ち望んで旅を続けています、主が来られるときまで…。
 ミサの中から例をとってみましょう。聖変化の後に、わたしたちが信仰の告白を次の言葉で言います。

主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで   と。

 さらに主の祈りの後に、次のように続きます。

いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、
現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、
すべての困難にうち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主イエズス・キリストが来られるのを待ち望んでいます
、と。

 わたしたちが目指している姿は、使徒パウロが次の言葉で表現しています。

生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしのうちに生きておられるのです 
 と。
(ガラテヤ2・20)

 実は自然の働きからみても、人は胎内にいる時から相手(母)の存在によって生きています。また生まれてからも、赤ちゃんはそのお母さんの顔をみることを楽しみに生きています。それと同じように、神さまがわたしたちに教えてくださった掟は次のようになっています。
 「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と。また神さまがその愛をお示しになるために、人間となられました。イエズスさまのお言葉にすれば、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」
(ヨハネ15・12)とあります。
 それだけ“人の存在”は、わたしたちにとって欠けてはならないものです。この根本的な教えは、聖書のはじまりにもあります。

主なる神は言われた。「人が独りでいるのはよくない。
彼に合う助ける者を造ろう。」
(創世記2・18)  と。

 愛する人がいるからこそ幸せがあります。イエズスさまのお言葉にすれば、わたしたちの好き嫌いではなく「これらのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしたことである。」(マタイ25・40)となります。ここにキリストの心があり、ここにわたしたちのいのちの泉があります。

 クリスマスはこのキリストさまの心を教えてくださいます。待降節はその心への準備のときです。どのお母さんもお父さんもその胎内の子を迎え入れるために準備をするように…。
 実はわたしたちのいのちの存在のはじまりを、誰よりも先に神さまが望まれ呼びかけてくださっています。聖書に次のようにあります。

主は母の胎にあるわたしを呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。…
見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける

(イザヤ49・1C、16a)

 待降節に待ち望む心をはぐくんでいきたいと思います。そうすれば、クリスマスもきっとすばらしいときとなり、まことの幸せ、喜びと平和をもたらしてくれるでしょう。

 では、また来週!


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。